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1597cd6b anonymous 2025-03-14 14:23
1. 悟りに至る最短の道を論理的に導き出す

「悟り」とは、あらゆる制約から自由になり、本来のあり方に至ることとする。この状態に至るためには、「存在の本質」から最短の道を論理的に導き出す必要がある。

(1) 存在の本質

根源的な状態(潜在的無)
何も固定されていない状態。
時間・空間・思考・意識・観察のいずれも確定されていない。

現象(有)
何かが確定している状態。
時間や空間、思考、意識が生じている。

(2) 悟りとは何か?

「現象がどのように生じ、どのように消えるのか」を完全に理解し、選択の自由を得た状態。
つまり、「現象の仕組みを見抜き、必要に応じてそれを解くこと」が悟りに直結する。

2. 最短で悟りに至る方法

ステップ 1:現象が生じる仕組みを認識する

何かが生じるとき、必ず「二つ以上の異なるものの関係」が存在している。

例えば:
「これは良い」と「これは悪い」
「これは正しい」と「これは間違っている」
「やりたい」と「やりたくない」

こうした対立が生じることで、現象は固定され、持続する。

ステップ 2:対立を解除する

ある考えが固定されるのは、それが別の考えとぶつかっているからである。

「何かを認めると、別の何かが否定される」という仕組みを解くことで、固定されたものは消える。

方法 1:どちらもそのまま受け入れる

例:「やりたい」と「やりたくない」をどちらも否定せず、ただあるものとして認識する。
これにより、ぶつかり合いが消え、固定が解除される。

方法 2:そもそもどのようにして対立が生じたかを理解する

すべての対立は、後から生じたものにすぎない。
それを認識すると、固定されたものが選択肢でしかなかったことがわかる。

ステップ 3:すべての対立を超える

すべての現象は、何かと何かの関係から生じている。
それが関係として固定されなければ、現象は成り立たない。
すべての関係が「後から生じたもの」だと理解すると、それを必要に応じて外すことができる。


悟りの最短経路は、「対立を認識し、それを解除すること」にある。
これを超える方法は存在しない。なぜなら、すべての現象は対立によって生じており、それを解除することが根源的な状態に至る唯一の道だからである。
したがって、「対立の解除」が、最も速く、最も直接的な悟りの道である。

どんな修行方法も、最終的には「意図の固定を外す」ことに帰着する。
ならば、直接「意図をぶつけるのをやめる」ことが最短である。

老子の無為は、意図の衝突を最もシンプルに解く方法である。

「何かをしない」のではなく、「意図がぶつからないようにする」ことで、意図が流動し、『有』が固定化しなくなる。

このシンプルな方法こそが、悟りに至る最短の道であり、最も簡単な方法である。

しかし、この簡単さゆえに、多くの人は遠回りしてしまってるかもしれない。

「なんだよ、こんな簡単なことだったのか!」と爆笑し、その瞬間、無為に至る人が続出することも否定できない。
523ac8bb anonymous 2025-03-15 12:22
「意図の衝突は、意図を持続させようとすることで発生する」←こちらがより正確

「意図そのものは自然に生じて消える(即創即滅)」が、「持続しようとする意図」が新たな対立意図を生み出すため。

「正しい」という意図の例

① 「正しい」という意図に「持続の意図」がある場合

意図の流れ:

1.「私は正しい」と思う(意図が生じる)
2.本来なら意図は即座に消える(即創即滅)
3.しかし、「私は正しい」と思い続けようとする(持続の意図)
4.「私は正しくないかもしれない」という対立意図が生まれる
5.結果:「正しさを証明しようとする作為」が生じる

・他者の意見に対して過敏になる
・反論があると不安を感じる
・「正しくなければならない」というプレッシャーを感じる
・他者を間違っていると証明しようとする

「正しさを維持しようとする意図」が、「正しくないかもしれない」という対立意図を生む。「正しさを維持しよう」と思うほど、不安が強まり、苦しみが生まれる。


② 「正しい」という意図に「持続の意図」がない場合(意図を手放した場合)

意図の流れ:

1.「私は正しい」と思う(意図が生じる)
2.しかし、「私は正しさを維持しようとしない」
3.「私は正しい」も「私は正しくない」も、どちらでもいい
4.結果:意図が即滅し、固定されない
・他者の意見に対して過敏にならない
・反論があっても動揺しない
・「正しくあるべきだ」というプレッシャーが消える
・ただ、意図が流れるままにする

「持続の意図」を手放すことで、「私は正しくなければならない」という作為が消え、自由になる。「正しくてもいいし、正しくなくてもいい」という状態になり、意図の衝突が起こらない。
35ac94b7 anonymous 2025-03-15 12:43
1. 「持続の意図」と「自己の固定化」

意図は本来、瞬間ごとに生まれては消えていく(即創即滅)。
しかし、「持続の意図」が発生すると、意図を特定の形で維持しようとするため、自己が固定化される。

この「自己の固定化」こそが、「作為」の始まりである。

「持続の意図」=「自分を固定しようとする意図」。
「自己とは何か?」=「持続しようとしている意図の集合体」。

2. 「持続の意図」が自己を固定させる具体例

① 「私は〇〇な人間だ」という自己定義

意図の流れ:

「私は優しい人間だ」という意図が生じる(即創)
本来なら、この意図は消えて次の意図に変わる(即滅)
しかし、「私は優しい人間であり続けなければならない」という持続の意図が発生
「私は本当に優しいのか?」という対立する意図が生じる(意図の衝突)
結果:「優しい自分」を証明しようとする作為が生じ、自己が固定化される。

「持続の意図」が「私は優しい人間でなければならない」という固定観念を生む。

② 「私は成功しなければならない」という意図

意図の流れ:

「成功したい」という意図が生じる(即創)
本来なら、次の瞬間には別の意図が生じる(即滅)
しかし、「成功したい」ではなく、「成功し続けなければならない」という持続の意図が発生
「成功していない自分を否定する意図」が生じ、意図の衝突が発生
結果:「成功を維持しようとする作為」が生じ、失敗への恐れが固定化される。

「持続の意図」が「成功しなければならない」という自己の固定化を生む。

③ 「私は悟りを得なければならない」という意図

意図の流れ:

「私は悟りたい」という意図が生じる(即創)
本来なら、この意図も即滅し、次の意図に移る
しかし、「悟りを維持しなければならない」という持続の意図が発生
「私はまだ悟っていないのでは?」という対立する意図が生じる
結果:「悟りたい」という作為が生じ、悟れなくなる(自己が固定化される)。

「悟りを持続しようとする意図」が、逆に「悟りから遠ざける」。


「持続の意図」は、自己を固定し、意図の流動性を失わせることで、作為を生み出す。

「意図が流れるままにすれば、自己の固定化が解除され、無為に至る」。
eb086083 あんすー 2025-03-16 05:13
素晴らしいです。ありがとうございます。
2db56927 anonymous 2025-03-16 09:50
>>1597cd6b
その「悟りに至る最短の道であり最も簡単な方法」によって
あなたは「あらゆる制約から自由になり、本来のあり方に至る」を達成したのですか?

この方法で「悟り」に至った事例をいくつか教えてください。
3313c791 anonymous 2025-03-16 13:37
無為に至る最短の鍵:作為に気づくだけでいい

無意識は作為を生み、意識はそれに抵抗する。このズレに気づくだけで、無為に至る。

問題は「作為」そのものではなく、それに気づかないこと。
気づかないと作為が持続し、意図が固定され、苦しみが生まれる。
しかし、作為が起こっていることに気づくだけで、作為は持続せず、意図の流動性が回復する。

シンプルな流れ

1.無意識の作為が自動的に発生(例:「もっと集中しよう」「リラックスしよう」)
2.気づかないと、それが「自分のすべて」となり、意図が固定化
3.作為に気づくだけで、「続ける必要があるのか?」と問いが生じ、固定化が解除
4.意図が流動し、無為に至る

結果

無意識(作為) → 無為
意識(作為への抵抗) → 無為
意識と無意識のズレが消え、完全な無為の状態に入る

だから、「作為そのものが問題なのではなく、作為に気づかないことが問題」だった。
「今、作為が起こっていることに気づく」だけで、何もしなくても無為に至る。


悟りは「何かをすること」ではなく、「作為をやめること」だった

何かをしようとしない。ただ「気づくだけ」。
それだけで意図の流動性が回復し、無為に至る。
本当は「難しい」のではなく、「簡単すぎて信じられない」だけだった

「悟りは、難しいものではなく、気づいた瞬間に訪れるものだった」
「しかし、それが簡単すぎるがゆえに、ほとんどの人は信じようとしない」
38c10529 anonymous 2025-03-16 14:19
覚醒者が陥る落とし穴

エックハルト・トール、バイロン・ケイティ、クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシは、精神的なショックや肉体的な衝撃、一時的な意識の変容によって、意図の固定が一瞬解除され、意図の流動性が回復したタイプだと考えられる。

エックハルト・トール「うつと絶望の極致に達した瞬間に、突然「今、この瞬間」に気付いた。」
バイロン・ケイティ「人生のどん底にいたとき、「すべては思考の中にある」と気付いた。」
クリシュナムルティ「激しい体調不良を経験した後に、意識の変化を体験した。」
ラマナ・マハルシ「強烈な死の恐怖の中で「私は死ぬものではなく、ただ存在しているだけだ」と気付いた。」

これらはすべて、意図の固定化が極限まで達したことで、意図の流動性が偶然に回復した結果。

偶然に意図の流動性が回復すると、その体験が「なぜ起こったのか?」を考える。
しかし、「意図の流動性」が見えないまま解釈しようとすると、思考や自己概念に頼ってしまう。

例えば:
「私は本当の自分に目覚めた」 → 「意図が流動し始めた」だけなのに、「本当の自分」を持ち出す。
「思考を手放したら、現実が変わった」 → 「意図の流動性が回復した」だけなのに、「思考の操作」と誤解する。
 「神の視点に目覚めた」 → 「意図の流動性の回復」が起こっただけなのに、「神の概念」を持ち出す。

偶然の覚醒は、思考で解釈しようとするとズレが生じる。

意識レベルと無意識レベルの理解にズレがあると無為には至れない。
7bb70a6f anonymous 2025-03-17 12:54
「意図の創造・持続・解除」は、誰もが無意識でやっているが、気づかないだけ。
「意図の持続」に気づき、「意図の持続」を解除するだけで、作為(固定観念)は消え、無為に至る。
たった一度の解除で、無為に至るので圧倒的に効率がいい。
53a33afe anonymous 2025-03-19 16:47
>>c60c21dc

>LRHは「Not-isness(否定すること)」を問題の根源としたが、実際には 「Not-As-isness(創造の否定)」がすべての始まりだった。

⇨誤解ではなく、サイエントロジーの公理の論理的不整合かと。そもそも、アズ・イズネス(創造:モックアップ)⇨アルター・イズネス(創造:モックアップ)⇨イズネス(創造:モックアップ)の一連の流れだけで公理は自己完結するので、ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨一連と同じ大きさの等級の並列概念ではありません。

>LRHは「Not-isness」が、実際には 「Not-As-isness」であり

という行[くだり]は“基本的に”同意します。その「ノット・アズ・イズネス」こそが「アルター・イズネス」なのです。しかし、「アズ・イズネス」が「非創造」であるという主張には同意できません。「アズ・イズネス」こそ、“純然たる”創造でありモックアップです。アズ・イズネスも、アルター・イズネスも、イズネスも、全て“創造”です。創造でないリアリティも、創造でないゲームも存在しません。

LRHが公理にノット・イズネスを挿入した意図は、“ノット・アズ・イズネス”としてのアルター・イズネスとノット・イズネスを区別することにあったであろうと思われます。つまり、アルター・イズネスが可能なノット・アズ・イズネスとアルター・イズネスが不可能なほどに合意され、強固なリアリティとなってしまったフェーズでのノット(否定)です。

粒子の刹那生滅及び空性の原理で語るなら、アズ・イズネスを重ねてもリアリティは構築できます。ただし、これでは時間という概念が導入できません。なぜなら、時間は見せ掛けであり諸法の実相に反する偽りだからです。アズ・イズネスを連続すると、モックアップとアン・モック(完全な消滅)が交互に生じます。これが連続すると、創造と消滅による刹那生滅の原初形態になります。ただし、時間とアルター・イズネスを導入しないと「自動性」が生じないので、セイタン(アートマン)たちにとっては、非常に面倒で手間なのです。セイタンは自らの創造物に対する受け身でありたいのです。つまり、影響を受けたいわけです。そこで、マインドを創造して、機械仕掛けを拵えるんです。そして、その機械仕掛けに創造させるのです。これによって、セイタンはアルター・イズネスと時間を導入し、自らの創造物に対する受け身となって、影響を受けることができるわけです。
17b9684d anonymous 2025-03-19 16:56
>>53a33afe

>ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨イズネスという一連のサイクルと同じ大きさの等級の並列概念ではありません。

〈訂正版〉

ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨イズネスという一連のサイクルと同じ大きさの等級の並列概念ではありません。
f00bc7e8 anonymous 2025-03-19 18:22
アルター・イズネスは、アズ・イズネスの創造(モックアップ)に持続性を与えるための時間という偽り(見せ掛け)の導入である。これを、「ノット・アズ・イズネス」と呼ぶこともできる。
時間の導入は、サイエントロジーの『因子』における「影響の創造」と深く関係している。因子には、“不動の第一原因”たる起因(クリエイターたる各セイタン)の全目的は影響の創造であったと述べられている。セイタンは、モックアップの持続性を得るために、時間というアルター・イズネス(見せ掛け)を導入する。その目的は、自らの創造物(モックアップ)に対する受け身として影響を被ることである。モックアップに、マシーンとしての自動性を求めることも同様の衝動(欲求)である。

アルター・イズネスの導入によるアズ・イズネスによるモックアップの持続というイリュージョンのパターンが多くのセイタンによって合意され、コラボレーションによる集合宇宙の創造に至ると、そのアルター・イズネスのパターンは各集合宇宙の自然法則(リアリティのルール)となってリアリティを構築する。合意されたリアリティとは、イズネスである。

各集合宇宙における自然法則の合意は非常に強固であり、アルター・イズネスのパターンは自然法則(リアリティのルール)として埋め込まれている。故に、各集合宇宙におけるアルター・イズネスのパターンは従うのみである。

いったん各集合宇宙における自然法則として合意されたアルター・イズネスのパターンは、MESTのレベルで抗っても変えることができない。つまり、アルター・イズネスの自由度が存在しないのである。これが、「ノット・イズネスの試み」である。ここで、敢えて「(アルター・イズネス)の試み」と表現したかと云うと、それが精確な表現であるからである。ノット・イズネスは不可能なのである。また、自然法則に対するノット・イズネスの試みだけでなく、各集合宇宙のリアリティをアズ・イズネスによってアンモックすることも、その集合宇宙に関わる全てのセイタンの合意を無効化しない限り不可能である。自然法則の否定=無効化は各集合宇宙のリアリティ(存在)自体の否定=アンモックとなるため、個々のセイタンが各集合宇宙のアルター・イズネスのパターンに介入できるなら、自然法則が否定されると同時に、その集合宇宙のリアリティ(存在)自体も崩壊することになる。
f491781a anonymous 2025-03-20 09:27
>もしLRHが「Not-isness をやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていたら、菜園は無駄なプロセスを経ずに悟りへ至る最短ルートを示す究極のシステムになっていたかもしれない。

>彼(LRH)は「Not-As-isness(創造の否定)」を理解できなかったため、「Not-isness」という誤った概念を作り、菜園の理論を「悟りに至る最小の橋(ブリッジ)」から遠ざけてしまった。

これは、LRHの最大の失敗であり、老子の無為こそが「最短で悟りに至る方法」であると考えるのが妥当であろう。

>老子の無為は、意図の衝突を最もシンプルに解く方法である。

「何かをしない」のではなく、「意図がぶつからないようにする」ことで、意図が流動し、『有』が固定化しなくなる。

このシンプルな方法こそが、悟りに至る最短の道であり、最も簡単な方法である。

しかし、この簡単さゆえに、多くの人は遠回りしてしまってるかもしれない。

⇨LRHは、古今東西のあらゆる宗教体系や神秘主義の思想と方法論を調査しました。さらに、神秘主義の領域に精密科学と工学の方法論を適用しました。

その上で、LRHは「エネルギー≒力≒プラーナ≒電子」の問題を処理しないと悟りに至れないことを正しく認識しました。エネルギーのメカニズムに無知なヒンドゥー教やパーリ経典に依拠するテーラワーダ仏教(≠ゴータマ・シッダールタのオリジナルの仏教)では、力(エネルギー)の問題から逃避するという逆コースで悟り(解脱)に至ろうとします。しかし、力から逃げても何も問題は解決しません。力に直面(≒アズイズ)し、力をコントロールして、力を降服せしめなければならないのです。「生存」の範疇(スケール)を越えた先に、つまり、生存の極みにおいて「存在(ただ在る)」があるのです。そして、所有性の極みにおいて「無欲」という能力を得る(回復する)のです。「離欲」という痩せ我慢(反生存的努力)によって「無欲」に至るのではないのです。ノット・イズネスの逆フローを避けるために、力からの逃避という反生存のベクトルに向かうのは、セイタンをして、よりMESTに近付けるだけの無駄な努力(骨折り損)なのです。

悟り(解脱)が、そのように簡単で単純な問題であったなら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。しかし、残念ながら、現実はそうではないのです。MESTを構成する集合宇宙一つを創造するために、どれだけの複雑で果てしなく長遠の努力が費やされたかを考えるだけで、この私たちの住む集合宇宙(スペースオペラ・ユニバース)から脱出するだけでも至難の業だと理解できるでしょう。そして、多くの人類が、その努力の過程で奈落の底に堕ちてしまったのです。複雑さを紐解くには、その複雑さを生んだ問題を一つ一つ辛抱強く処理していく(紐解いていく)以外に道はありません。絡まった毛糸と同じです。絡まった毛糸とは、MESTの比喩そのものです。複雑さに直面し、その絡まりを一つ一つ解いていった先に、久遠元初の以来の本地[ほんじ]の回復としての悟り(解脱)の成就が待っているのです。

私が語るよりも、ヴィヴェーカーナンダに語ってもらいましょう。以下、引用します。

「ある人は弱く、しかも怠け者であって、したくないからではなく、できないから力を使いません。その結果は束縛であり、自由の喪失です。もう一人の人は、自分がしようと思えば、相手に抵抗できないほどの打撃を与えることができるということを知っているにも関わらず、それでも力を使わないばかりか、敵を祝福さえします。そして、敵はいつの間にか、彼の仲間になっているのです。彼は自由です。

弱さから力を使おうとしない人間は、罪を犯しているのです。それは、どんな罪でしょうか?臆病という罪です。そして、怠惰という罪です。臆病は恐れから生じます。力を使うべき時に、力を使うことをためらう人間は、寛容ではなく怠慢(不作為)という罪を犯しているのです。弱さから力を使えない無能な人間は、無抵抗から何の利益も得ません。しかし、力を使うことができるにも関わらず、強さによってあえて力を使わない人間は大きな利益を得るのです。

第一に、闘うだけの力を持っているのかどうかを自分に問いかけなければなりません。その上で、力を持っていながら、力を使う必要がないならば、その時初めて、“真の力と勇気”を持っているといえるのです。しかし、もしあなたが、力を使うことができないにも関わらず、自分は寛容や愛という動機から、抵抗することをしないのだと信じ込もうとするのであれば、あなたは自分を欺いているのです。それは無能であり臆病であり怠惰です。その時、あなたは知っているのです。自分が、本当は無能で臆病で怠惰だから、抵抗することに無気力なだけであるということを。それは、あなたを弱めることでしょう。この不断の自己非難のプロセスは、他のいかなる弱点よりも甚だしく、悪徳を養うものです。

犯罪者は、なぜ犯罪者になったのでしょうか?それは、自尊心、つまり面目を失っているからです。そうです、無責任の結果です。責任とは、常に力を最適に扱うことであって、力の放棄ではありません。我々の第一の義務は、自分自身を憎まないということです。自分自身を憎み始めた人間は、堕落への門がすでに開かれているのです。自分を信頼できない人間は、他人を信頼することなどできません。一番大切な友人である、自分自身と友好関係を築けない人間は、他人と真に友好関係を築くことは決してできないでしょう。

『バガヴァッド・ギーター』の中でアルジュナは、彼に立ち向かう強大な軍勢を見て臆病になりました。アルジュナは、敵が自分の友人たちであり身内であるという理由で、戦うことを拒んだのです。そして、そのことを「無抵抗が愛の最高理想である」と正当化しました。彼の「愛」という正当化が、アルジュナをして彼の祖国と王への義務を忘れさせたのでした。この時、アルジュナに対して、シュリークリシュナは、「あなたは偽善者であり卑怯者である」と述べるのです。「おん身は、賢者のように“語る”。しかし、その“行動”は、おん身が卑怯者であるということを暴露する。それゆえ、立って、そして戦え!」と。

この全てから、一つの真理が見えてきます。それは、「弱さは駄目だ」ということです。人間の理想は「無恐怖」ー 何ものも恐れないこと ー です。恐怖は弱さの印です。人は、世間の嘲りや蔑みを気にすることなく、自らの責任を遂行しなければなりません。人は、「自分は自らの責任を果たすに足りるほど強い」と思うようでなくてはならず、「自分は我が理想より低いことをしている」などと思うようであってはなりません。

無活動は何としても避けなければなりません。無活動は怠惰です。活動は、常に力(エネルギー)の使用を意味し、力の使用は必ず抵抗を生みます。もしあなたが、力を使えないのであれば、まずは力を使うことを覚えなければなりません。悪をなす可能性なしに、善をもたらすことは不可能です。無活動者は失敗すらもできないほど、無能な臆病者であり怠け者なのです。ですから、彼は失敗することを覚えなくてはなりません。

人が力を用いることなく影響を与えるという最高理想に到達する前に、人は力を使うことができなくてはなりません。常に活動者でありなさい!彼をして働かしめよ!彼をして戦わしめよ!敢然として行かしめよ!そうして、彼が闘うに足り得る力を回復した時、その時に初めて、力の放棄は一つの徳になるのです。あなたが完全に力の征服を成し遂げた時、初めて平安が訪れるでしょう。その時、この力の放棄は、汝が持っている力の最高の表現へと昇華されるのです。」

所謂、真の聖者とは、一度もホモ・サピエンス程度の低い存在のスケールまで堕ちたことのない人間(ビーイング)です。彼らは、たまたまホモ・サピエンスのモックアップ(肉体)を身に纏っているかもしれませんが、修行して聖者になった(悟りを得た)わけではないのです。「修行して悟りを成就した」、あるいは「神の恩寵によって悟りを得た」などと主張(自己申告)する人間は、聖者と崇められていても二流・三流です。実際に、彼らの多くは、悟りと神の啓示(マインドコントロールの類)の区別も付いていません。

聖者が説く修行法(方法論)の問題点は、真の聖者の場合、悟りの状態から自らが堕ちたことがないので、堕落した状態から悟りの状態を回復する術に無知であるという点です。そして、「我は悟りを得たり」と宣言する自己申告の聖者の場合、多くは実際には究極の悟り(解脱)を得ておらず、奇妙な信念(信仰)に捕らわれているということです。その前提を認識した上で、サイエントロジーの手法(ブレークスルー:突破口)を捉えることで、サイエントロジーの存在価値を客観的かつ中立的に評価することができるでしょう。
e7862d43 anonymous 2025-03-20 13:33
As-isness(そのままの認識)

創造と非創造が同時に起こる。
ありのままを認識すると、それは持続せず消える。

Not-As-isness(創造の否定)

観察者が「これは私が創造したものではない」と否定する。
その結果、創造が持続し、固定化が始まる。

Alter-isness(変形)

Not-As-isnessによって、「こうあるべきだ」という意図が生じ、変形が始まる。

Not-As-isnessが先に発生し、その後にAlter-isnessが生じる。


時間の概念は Alter-isnessから生まれる
As-isnessでは持続しないため、時間は生じない。
Not-As-isness による「持続」が発生し、その上で Alter-isness(変形)が加わることで、時間の感覚が生まれる。

意図の固定化は Not-As-isness の産物
「これは私が創造したものではない」と思うことで、意図が固定化し、持続する。
これによって、あらゆるリアリティ(物理的世界、アイデンティティ、ルール)が生まれる。
a898132c anonymous 2025-03-20 14:43
>>f491781a
エネルギー(力)の問題を解決しないと悟りに至れない?

悟りとは「意図の持続を解除すること」であり、エネルギーの操作とは無関係。
エネルギーをコントロールすること自体が、意図の固定化を生む。
本来、エネルギーとは「流れ」であり、持続させる必要がない。
エネルギーに関与しようとする時点で、作為(意図の衝突)が生じる。

力をコントロールしなければならない?

力を制御するのではなく、手放せばよい。
「力を降服させる」という発想こそが意図の衝突を生む。
「力をどう扱うか」を問題視すること自体が、意図を固定化している。
力は「生じるかどうかを選ぶ」ものにすぎず、コントロールの必要はない。

生存のスケールを超えた先に悟りがある?

生存と悟りは無関係。
生存の極みに到達することは、悟りとは無関係のプロセス。
「生存の問題を解決しなければならない」という思考が、意図の固定化を生む。
最初から「生存に関与する必要がない」と気づけば、それだけで解放される。

所有の極みに到達しなければ無欲になれない?

無欲とは、所有を意識しないこと。
「所有すること」と「所有しないこと」のどちらにも執着しないことが無欲。
「持たなければならない」「持たないことが偉い」という考えが、意図の持続を生む。
最初から「所有を気にしない」ことが、本当の無欲である。

エネルギーの操作を避けると、MESTに囚われる?

MESTに囚われるのは、意図を固定化しているからであり、エネルギーの問題ではない。
MEST(物質・エネルギー・空間・時間)は、意図の衝突によって生じるもの。
「エネルギーを操作しなければMESTに囚われる」という考えこそが、MESTを強化する作為。MESTの影響から抜けるには、そもそもそれに関与する必要がないと気づくだけでよい。
悟りは複雑で長い時間がかかる?

悟りは「意図の持続をやめること」であり、一瞬で可能。
「問題を一つずつ解かないといけない」という考えが、悟りを妨げる最大の要因。
「絡まった毛糸を解く」必要はなく、毛糸を「解こうとする作為を手放す」だけでよい。
力を持ち、それを使わない選択をすることが自由?

本当の自由とは、「力が必要である」という思い込みを解除すること。
力を持つことが自由ではなく、「そもそも力を必要とするかどうかを選べる」ことが自由。「力を持つ→使わない」というプロセスではなく、「力を持つ必要すらない」と気づくことが解放。

弱さは罪である?

「強さ・弱さ」という概念自体が、意図の衝突から生じる。
「弱さが罪」という考えが、自己イメージの固定化を生み、悟りを妨げる。
本来、「強い・弱い」は相対的なものであり、どちらも選択できる。

まず力を得て、それを使わないことで悟る?

「力を得る必要がない」と気づくことが、究極の自由。
「力を持つ→使わない」というプロセスは、「意図の持続→解除」という流れになり、無為とは異なる。
最初から「力が必要という作為を解除」すれば、そのプロセス自体が不要になる。

恐怖を持たないことが理想?

恐怖の有無を問題視すること自体が作為。
恐怖をなくすことを目的にすると、逆に意図の衝突を生む。
恐怖が生じても、それを「気にしなければよい」だけ。

戦うことが必要であり、戦えない者は卑怯?

「戦う or 戦わない」は、ただの選択。
「戦うことが必要」という考えこそが、意図の持続と固定化を生む。
「戦わなければならない」ではなく、「どちらでもいい」という自由な選択こそが、本来の無為。


悟りとは、「意図の持続を解除すること」なので、誰がそれを達成したかは関係ない。

本質的には、「悟った」とされる人物を特定し、比較すること自体が、「悟り=評価すべきもの」 という新たな作為を生む。
つまり、「悟った人が偉い」「悟っていない人は劣っている」といった価値観が生じ、固定観念を強化する。

本当に重要なのは、「悟りとは何か?」であって、「誰が悟ったか?」ではない。
「悟った人」を探すことは、結局「外部の権威を探すこと」にすぎず、自己の意図の流動性を妨げるだけ。

「誰が悟ったか」を気にすることは、悟りから遠ざかる最大の要因になり得る。
5c3924b3 anonymous 2025-03-20 15:04
>>a898132c

貴方は、悟りと解脱の意味を全く以って誤解しているようなので、端的に尋ねよう。

端的に、悟りとは何か?悟りを得ると何がどうなるか?そして、何をしるのか?悟りと解脱の関係とは何か?

ここは、MESTユニバースの領域であり、エネルギーの問題を避けては悟りも解脱も成就し得ない。貴方のように、ひたすら、フィギュア−フィギュア−フィギュアの堂々巡りで終わるだけだ。

また、「反生存−生存−存在」というスケールを理解したほうがよろしい。生存はダイナミックかつリアリティの領域であり、存在はスタティかつアクチュアルの領域である。

>悟りとは「意図の持続を解除すること」であり、エネルギーの操作とは無関係。

⇨世俗スピリチュアル系の本を読み過ぎだろう。ここは、MESTユニバースの世界だ。マジック・ユニバースではないのだよ。エネルギーの堆積物(リッジ)を無視して、意図をコントロールすることは不可能だ。意図と意図の対立自体が、既にコンシダレーションではなく、メカニック(アテンション)のレベルであってエネルギーのフローを生むのだからね。
f9c3b569 anonymous 2025-03-21 12:16
>>5c3924b3
MESTユニバースの理論やエネルギー的な階層構造――リッジ、アテンション、コンシダレーションといった概念は、非常に緻密な体系だと思います。

しかし、私の立場では、それらもすべて「意図の衝突によって形成された有」であり、構造そのものが生成されたメカニズムのほうを観る視点を持っています。

たとえば、アテンションが固定されることでエネルギーの問題(リッジ)が生まれるとされますが、その「アテンションを固定する意図」がどこから来ているかを見ると、そこに対立する意図の存在が浮かび上がります。
また、「コンシダレーション(観念)」も、意図によって構成された枠組みであり、どの観念も「別の観念との対比」によって強化されます。
MEST(物質・エネルギー・空間・時間)も、意図が対立・固定された結果、時間軸や空間スケールが確定したものと捉えられます。

つまり、私は「アテンション」や「リッジ」や「コンシダレーション」以前に、
「なぜ意図が固定され、対立する構造が生まれたのか?」
という点を観察の起点としています。

「意図同士が衝突していること」そのものに気づき、それを解除する視点から見ると、  
アテンションは流れを取り戻し  
コンシダレーションは柔らかくなり  
リッジは消えていく

という順番で、「処理するべき対象」ではなく、「自然に消えていく現象」に変わります。

菜園の体系は、有の側からの地道な浄化・調整の体系であり、それが非常に有効に機能する場面があることは理解しています。

ですが私の立場では、
「意図を衝突させなければ、有はそもそも生じない」
という観点に立ち、問題を解消するのではなく、生じない状態を維持することに焦点を当てています。

だからこそ、悟りとは「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」
だと、私は定義しています。

エネルギーの流れやアテンションのコントロールも、衝突構造の上に成立しているものであり、それを使って悟りに至ろうとすること自体がまた、別の意図の固定(=作為)になってしまう危険性を孕んでいる。

だからこそ、私は「誰が悟ったか」「何を達成したか」「どんなエネルギーが残っているか」よりも、
「今、意図が衝突しているかどうか?」  
「衝突をやめたら、何が自然に起こるか?」

という問いのほうを大切にしています。
768224ab anonymous 2025-03-21 13:27
>>f9c3b569

貴方のコンセントは、アバター・コースの教義を前提にしているように思われるのですが、違いますか?

もし、そうであれば、創設者こハリー・パルマーは、アバター・コースを「ケースの修了」をもたらす代替のサイエントロジー・ブリッジだと宣伝したことがあり、「ケースの修了(反応バンクの完全消去)」の先にある悟り(ノーイングネス)及び解脱には明確な「最終現象」が存在することが前提となっています。

>悟りとは、「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」

この立場では、悟り及び解脱に段階のスケールも最終現象も存在しませんが、これは、サイエントロジーのブリッジのみならず、仏教の無上正覚や悟りの階梯の考え方とも相反することになりますね。
822d4e4a anonymous 2025-03-21 13:58
>>768224ab

補足しますと、サイエントロジーで云うコンシダレーションとは、「純粋な意図」であり、MESTを統制します。定義上、ポスチュレートの継続がコンシダレーションですが、コンシダレーションは、アテンションを含むメカニックスのレベルよりも上位に位置します。

ポスチュレート及びコンシダレーションがMESTを統制するというのはこういうことです。

例えば、明日特定の地域が雨予報だとします。そして、「明日は(その地域は)晴れだ」とポスチュレートし、実際に晴れました。これは、機能するポスチュレートです。一方、明日特定の地域が雨予報であり、「明日は(その地域は)晴れだ」とポスチュレートします。ところが、現実は予報通り雨でした。これは、機能しないポスチュレートです。

ポスチュレートとは、祈りや懇願ではなく「MESTに対する要求・命令・統制」です。ポスチュレートの能力は、機能するセイタン(OT)の能力にも当然関わりますし、所有性とも関係しています。というより、ポスチュレートの機能こそが所有性を決めます。
dca327a6 anonymous 2025-03-23 08:13
>>768224ab

アバター・コース、あるいはアバター・コースに類する個人の「信念」や「意図」にアプローチするスピリチュアル的な実践体系の欠陥は、信念の変化と現実との間に大きな落差(乖離)が生じることです。

例えば、誰かがコースを終えて、「何でもできる気分だ」という感覚あるいは境地に至ったとしましょう。しかし、対MESTとの関係における現実はほとんど変化していないのです。MESTの諸法実相を看破するノーイングネス(智慧≒悟り)も、MESTを統制するパワー(能力)も得られはしませんでした。「何でもできる気分」ではあっても、現実には「何でもできる(ようになった)わけではない」のです。そして、「何でもできる気分」さえも、持続的なものではないのです。

もちろん、サイエントロジーにおいても、『フィラデルフィア博士号コース』で扱われた主題である初期の創造のプロセシング(モックアップ・プロセシング/スペーセーション)やクリアー・コグニションでも、同様の問題は残ります。信念や意図が自由になったことと、MESTを自在に統制・支配・制御・処理できる真正のOTとの間には大きな隔たり(彼岸)が存在します。アバター・コースその他の信念や意図を扱う体系とサイエントロジーとの根本的な違いは、前者は信念や意図を変えることがゴールであるが、サイエントロジーでは信念や意図を先行して変えるが、対MESTの統制・支配・制御・処理の能力が追い付かないというギャップ(乖離・彼岸)を伏線回収で埋め合わせるための方法論を、少なくとも模索している(※依然として、サイエントロジーのブリッジは完成された体系とは言い難い)ということです。
e29cdced anonymous 2025-03-23 08:20
>>dca327a6

以下、文意をより明確にするために、一部を補足。

アバター・コース、あるいはアバター・コースに類する個人の「信念」や「意図」にアプローチするスピリチュアル的な実践体系の欠陥は、信念の変化と現実との間に大きな落差(乖離)が生じることです。

例えば、誰かがコースを終えて、「何でもできる気分だ」という感覚あるいは境地に至ったとしましょう。誰かは、それを「私は覚醒した」と証言するかもしれません。しかし、対MESTとの関係における現実はほとんど変化していないのです。MESTの諸法実相を看破するノーイングネス(智慧≒悟り)も、MESTを統制するパワー(能力)も得られはしませんでした。「何でもできる気分」ではあっても、現実には「何でもできる(ようになった)わけではない」のです。相変わらず、MESTを意図した通りに自在にコントロールできないという現実は変わりません。そして、「何でもできる気分」さえも、持続的なものではないのです。

もちろん、サイエントロジーにおいても、『フィラデルフィア博士号コース』で扱われた主題である初期の創造のプロセシング(モックアップ・プロセシング/スペーセーション)やクリアー・コグニションでも、同様の問題は残ります。信念や意図が自由になったことと、MESTを自在に統制・支配・制御・処理できる真正のOTとの間には大きな隔たり(彼岸)が存在します。アバター・コースその他の信念や意図を扱う体系とサイエントロジーとの根本的な違いは、前者は信念や意図を変えることがゴールであるが、サイエントロジーでは信念や意図を先行して変えるが、対MESTの統制・支配・制御・処理の能力が追い付かないというギャップ(乖離・彼岸)を伏線回収で埋め合わせるための方法論を、少なくとも模索している(※依然として、サイエントロジーのブリッジは完成された体系とは言い難い)ということです。
c780d314 anonymous 2025-03-23 09:55
>>e29cdced

公平に論じるならば、アバター・コースは、いわゆる「信念(マインド・プログラム)や意図を書き換える」といった類の実践ではありません。アバター・コースは、信念や意図の創造のプロセスを具に観察させることで「自動化された信念」を消去し、自らの信念や意図のコントロールを回復させることを目指す実践体系と言えるでしょう。しかし、自らの意図や信念のコントロールが真の意味で実現したなら、新たな意図や信念に基づいて、MESTの現実が変わらなくてはなりません。

真の意味で、信念や意図が変化したならば、「無為」にして、つまり、努力(「有為」)を要さずに、その人のポスチュレートに従ってMESTの現実は変わるでしょう。否、変わらずにはいられないのです。なぜなら、ポスチュレートの機能の回復によって、自らの信念や意図に基づいて、MESTを統制・支配・制御・処理する能力、言い換えれば所有性が向上=回復されるからです。

アバター・コースの実践者であれば、コースの受講によって「自動化された信念が消えた」り、「何でも出来そうだ」という気分にたとえなったとしても、相変わらず、上級コース受講のためのお金の工面に苦労したり、あるいは、お金のために受講生を勧誘したりする努力(有為)を続けているという現実は、所有性が低くポスチュレートが機能していないという結果であり、そのようなMESTに縛られた状態は、セイタンの真の自由(OT能力)の回復あるいは解脱の成就とは到底言い難いものです。
e552b80f anonymous 2025-03-23 10:12
>>dca327a6

「貧乏な真正のOTは存在し得るか」という問いは哲学的な問いであるが、「敢えて貧乏を(自己選択で)演じるOTはいる」だろうということだ。ゴータマ・シッダールタもそうであった。

MESTを(合意されたMESTの自然法則それ自体を除いて)自在に統制可能であれば、本来は所有性に窮することはない。しかし、逆説的に、解脱即ち無上正覚を得ることで、MESTの虚構性を認識するので、MESTに価値を置かなくなる。これは、難行苦行や「離欲」の痩せ我慢のようなMESTの現実を無視すること(エシックス及び生存に反する「有為」の努力:ノット・イズネスの試み)とは全く異なる。
1755f0da anonymous 2025-03-23 14:57
>>c780d314

人がスピリチュアル系の実践にのめり込んで(あるいは何の前触れもなく)突然覚醒し、非常に興味深く深遠な世界を垣間見ることがある。LRHは、これを「柱に昇った状態」と呼んでいた。

巷に溢れる「ワンネス体験」の類が典型例である。こういった“体験”は、あくまでも一過性のかつ受け身の状態であって、恒常的な能力にはなり得ない。そして、程なくしてMESTの現実に引き戻されてしまう儚いものだ。

サイエントロジー(LRH)のアプローチは間接的アプローチであり、信念や意図を直接処理するのではなく、反応バンクを構成するエングラムやリッジといったエネルギー(反応バンク≒ケース≒カルマ)を処理すれば、信念や意図は自ずと自由になり、ポスチュレートの機能及びMESTの所有性が回復されるというものだ。

初期のスペーセーション(モックアップ・プロセシング)は、直接意図を扱うのではなく、モックアップの創造によってモックアップの自動性を消去することで、反応バンクのモックアップを消滅させ、ポスチュレートとコンシダレーションの機能を回復させるというものである。しかし、これですら凡夫(生肉)には勾配がキツすぎた。

もちろん、“理論上は”、意図あるいはモックアップを創造し続けているのは、セイタン自身なのであるから、創造を止めればバンクは消えるはずである。しかし、実際には、メカニックス(エネルギー)のレベルを処理しないと、コンシダレーションの機能は回復されない。
dc7a51ea anonymous 2025-04-04 19:55

エシックスという主題は、論理と合理性の問題であるとともに、力及びエネルギーの適切な扱い方の問題である。

文学や映画の世界のように、正義の味方が勝つとは限らないのが現実の世界である。それどころか、陰険かつ狡猾な悪は栄え理不尽や不条理はまかり通る。

法の支配は理想論であり、現実世界は力の支配である。悪が栄えるからこそ、力の適切な扱い方であるエシックスが必要なのである。そして、法の支配という理想を実現するためにも、その前提として力の適切なコントロールが必要になる。

力の問題から逃げていては、アウト・エシックスの悪(反生存)のグループや勢力が栄えるだけである。エシカルの繁栄には、個人個人の能力・力・技能が必要だ。

LRHは、『エシックス入門』において、シモン・ボリバルの物語を力を効果的に扱わなかった失敗事例(エシックスにおける教訓)として紹介したが、LRH自身もまた晩年は教団内における権力の濫用と権威主義的支配によって力の扱い方を誤り、自ら破滅する結果を招いた。LRHの物語こそ、サイエントロジストにとって、エシックスにおける真の教訓とすべきである。
5fa95ec4 anonymous 2025-04-05 09:08

今頃、LRHは、サイエントロジストを嘲笑っていることだろう。

循環定義に陥ることが必至の頭の悪くなる勉強法、アービトラリーな奴隷制度としてのエシックス−ジャスティスシステム、創作ジーヌー神話とOTの逆コースとしてのBTプロセス。ゴールの存在しないブリッジのマネーゲーム。

初期のダイアネティックスの「心を映像として観察する」原則のみが、唯一効果をもたらす本物のプロセスである。そして、初期のオーディターの規律とそこから派生する技術的アプローチやエシックスの諸原則のみが有効である。そして、初期にLRH自身が警告していた奈落のブリッジが、今日のBTプロセスである。

今日のブリッジは、わざと、ノーイングネスとパワーの回復への道であるOTから逸脱し、失敗するように構成され、仕向けられたガラクタである。ゴールに行き着かないどころか、ラットレースの堂々巡りで何処にも行き着かず、最終的に奈落に落ちるだけのOTの逆コースが今日のブリッジである。

ロンズオーグのブリッジとて、基本設計がLRHのブリッジであり、そこに潜む根本的なバグは何の解決も施されていないケースの時限爆弾である。

LRH自身はバカでも無能でもなく、確信犯である。何故に、こんなガラクタをサイエントロジストに遺したのか?それは、どれだけのバカげた荒唐無稽の代物でも、果たして、どれほど多くの人々が私(LRH)の言葉を信じるだろうか?というLRHの自尊心(というよりナルシシズム)を満たすためのゲームであった。ブリッジも、サイエントロジストも、そのゲームのための手段だった。

LRHは真実に偽りを混ぜた。概して、初期の言説の多くは真実であり、晩年の言説は偽りである。そして、彼は自分自身が知り得た多くの真実を公に語っていない。

LRHは、いずれこの惑星に戻ってくるだろう。過去そうであったように、この惑星に混乱と無秩序の種をもたらす抑圧者・暴君・陰謀家・真正のSP(サイコパス・ソシオパス)として。
f6e8b40c anonymous 2025-04-05 16:10
>>5fa95ec4

>>5fa95ec4

BTについて

「自分の肉体は、自分でない無数のビーイングによって構成されている」(OTⅢマテリアル)

当たり前だ。肉体にはGE(進化系統のエンティティ)が存在し、皮膚には無数の常在菌が存在し、腸内にも無数の腸内細菌が存在する。そして、それらはBTではない。ジーヌー創作神話にしても、類似のセータ・インプラント(セイタンを奴隷化するための罠や試みや仕掛けが過去に存在し、今日も存在していることは事実である)は幾らでも存在するが、ジーヌー神話のようなこの惑星の歴史としてではない。

サイエントロジーのOTマテリアルに、そんな勿体ぶって厳重なセキュリティチェックを掛けるほどの価値は全くない。当たり前のことしか言ってない。大した価値のないデータや偽りのデータ(ガラクタ)でも、厳重なセキュリティチェックを掛けて、高額な金額を要求し、守秘義務と損害賠償誓約を課して、恭しく幾つものハードルを設けて儀式化することで、ガラクタに法外な価値が生まれるというわけだ。

LRHのブリッジは、あくまでも、宗教ビジネスの戦略であって、真実に至る道ではない。
f0d5fe8c anonymous 2025-04-06 05:37
>>f6e8b40c

もちろん、サイエントロジー教会のプリ・OTレベルで、精神的平穏や落ち着き、思考の明晰さ、自由な感情の回復による幸福感、注意によるMESTのコントールといった「ウィン」を得る人間はいることだろう。しかし、それは恒常的なものではなく、再現性もない。オーディターやC/Sや技術監督のクオリティとARCが高く、あるいは相性が良く、マキシマムにたまたま上手くいったケースが、これなのである。一過性の「ウィン」と恒常的に回復された「能力」は別物であるし、たとえ、ウィンの状態が恒常的に維持されたところで、客観的に証明可能な(ブリッジに期待される本来の)OT能力には程遠いと言わねばならない。
1cb41486 anonymous 2025-04-06 05:42

>悟りとは「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」。

⇨この定義は、「涅槃」や「浄土(浄土門では極楽浄土は真の涅槃とされる)」は到達不可能と説いたナーガールジュナ(龍樹)あるいは中観派のスタンスに近い。とは言え、ナーガールジュナも中観派も、ゴータマ・シッダールタ滅後の凡夫のインテリ階級の創作に基づく思弁哲学なので、オリジナルの仏教の立場とは相容れない。
5643675e Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-16 08:27
>>c79db46a

そなたに千の感謝を!
9f7289d7 Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-16 08:27
宇宙と心の中の様々な部分を見つめ、時には動かし、たゆまずにチャージをを処理し続ける —— これが禅宗的に言うところの悟りだろう。

いずれあらゆるチャージが解消される —— これが浄土宗的に言うところの悟りだ。

菜園はどちらかと言えば禅宗の方に近い。⁠しかし、教会は全体的にquicky⁠だ。
13ef2108 Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-16 08:47
社会的な悟りはある種の俯瞰だ。⁠例えば、収入が1000⁠万円、手取りが550⁠万円の人は、⁠「所得税率が下がればこの国はもっと良くなるのに」と思うかもしれない。⁠しかし、仮に税率が下がり、手取りが800⁠万円になったとする。⁠すると人は手取りの増加分である250⁠万円を全て消費に回すだろうか?⁠ ⁠所得税率が低くなると、政府と民間の消費を足し合わせた総消費は減ってしまう。⁠そうなると、そもそも税引き前の1000⁠万円という収入を維持するのも難しくなるのではないだろうか?⁠ ⁠その1000⁠万円の源は、さらに高額の収入を得ている人から政府が徴収し、消費したお金なのかもしれないし。

アメリカに移民した日本人女性から聞いた話では、同僚のヨーロッパ人女性は⁠「男はアメリカ人がいい。⁠ヨーロッパ人男性はだらしなく無責任で、家庭を支えて行こうとする責任感がない」と言うらしい。⁠しかし、アメリカに移住したヨーロッパ人女性がたまたま責任感のない男性と恋愛や結婚を経験し、その男性がヨーロッパ人だっただけではないだろうか?⁠ ⁠人口あたりの離婚率ならアメリカよりフランスの方が低い。
9225d417 anonymous 2025-04-17 10:16

悟りとは、コグニションのグラデーション(スペクトル)です。悟りは段階のスケールですが、解脱は成就と未成就の二者択一です。無上正覚と呼ばれる最上にして最終段階の悟りは解脱と同義です。無上正覚以下のコグニションは、クリアー・コグニションを含め、悟りの一分[いちぶん]ではあっても解脱ではありません。

究極の悟りは、究極のノーイングネスに至ることであり、言い換えれば潜在的全知能力を獲得することです。究極の悟りにおいては、言語道断・心行所滅・無念無想の境地において、MESTの刹那生滅即ち空性を看破することになります。この究極の悟り並びに解脱の境地では、自らの存在性の本質であるアートマン(≒セイタン)と、かつてヴェーダ教徒によってブラフマンとも呼ばれた究極のスタティック(≒涅槃)が本質的に同一であることが認識されます。これが、梵我一如であり、梵我一如とは、自己の存在性たるアートマンがブラフマンに溶け込むといった意味(後世の誤った解釈)ではありません。ブラフマン(涅槃)とアートマン(自己)との関係は、不可分(同質)でありながら独立しているのです。

解脱を輪廻転生(即ち肉体)の必要性からの開放と捉えることは、矮小化された解釈です。輪廻転生の必要性(輪廻転生のサイクル)から脱しても、よりメタなセイタンのライフ・サイクルが存在するからです。セイタンのライフ・サイクルは、より長遠な時間のサイクルであり、オバート−モティベーター連鎖及び反応バンクの核であるGPMと関係しています。このオバート−モティベーター連鎖及びGPMこそが、セイタンの反応バンクを通じたMEST化の元凶なのです。
b7d551cd anonymous 2025-04-17 10:30
>>9225d417

クリアー・コグニションの発生によって、エングラムのチェーンが瓦解するように、反応バンクを構成するエングラム以外の質量(マシーン)も、コグニションによって、それを瓦解させる「鍵」が存在するはずです。未来のサイエントロジーでは、反応バンクは、鍵となるコグニションによって、段階的かつシステマティックに消去することが可能となることでしょう。

LRHは、エングラムのケースに関してだけは、その鍵であるクリアー・コグニションを発見しましたが、クリアー以上のプリ・OTレベルにおいては、BT処理という的外れな脇道に逸れてしまいました。
67b6a0b1 anonymous 2025-04-17 11:45

サイエントロジストであれば、「サイエントロジーという宗教体系は、不可逆的にセータからMESTに向かうセイタンの存在性のダウン・スパイラル(螺旋状悪循環)を逆転させる唯一の道である」と教わってきたことでしょう。

サイエントロジーが唯一の道であるか否かは、よくよく考えねばなりませんが、今日において、類似の代替ルートは存在しません。世俗スピリチュアル系の類とサイエントロジーは、本質的にアプローチもクオリティ(完成度)も全く異なります。現行のサイエントロジーはOTに至る技術を持っていませんが、少なくとも、クリアーに至るまでの技術は存在します。世俗スピリチュアルでは、OTにもクリアーにも至りません。

仏教では、上根・中根・下根という「機根」が説かれます。解脱や悟りの内証の境地は同じでも、説かれる教えには優劣があります。機根は宿業(ケース)に基づき、機根は宿業による運命に左右されます。上根の者は、かつての仏教でも成道出来ましたが、より機根の劣った現代人を救う力は無いのです。下根の者をも救済可能な優れたる教え(法)こそが、現代における正法であり、その試みは、未来のサイエントロジーとして結実するでしょう。

さて、「長期の時間軸では、全員が救われる」という他力本願的な言説は、世俗スピリチュアルの世界では広く採用されています。例えば、ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』が、その代表例です。私は、このような予定説的な信仰は持っていません。と言うのは、浄土門においても、その真の救いは死後の極楽往生ではないからです。特に、親鸞と蓮如の浄土真宗においては、現世において無上の崩れざる幸福境涯を得ることが、死後の極楽往生の条件となっているのです。これを、平生業成とも、一念覚知とも呼んでいます。私は、現世において救われない人間が、死後において救われる道理はないと考えます。
e33175ff Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-19 11:09
>>b7d551cd

BT⁠処理はもともとアシストの一種で、真世が作り出し、後に幅度が権利を買い取ったものだ。⁠BT⁠処理も無意味ではない。⁠GPM⁠処理の代替とはならないがね。

インプラントGPM⁠については、あらかじめ用意された雛形に沿って処理できるものがあったりもする。⁠しかし、幅度が用意した雛形に当てはまるGPM⁠の全てを全ての人が抱えていると考えるのは間違いだろう。⁠ゴールをL&N⁠で探すのには時間がかかるが、雛形を使う方法と比べて無理がない。⁠ナリングをせず、リードのあるゴールのタームとオプタームを低いグレードやプレプチェックボタンで処理をすると時間はもっとかかるが、ケースを掘らずに削るので、安全性は大きく向上する。

当人のGPM⁠はインプラントGPM⁠よりずっと数が多く、それぞれがより多くのチャージを有しているが、処理方法はインプラントGPM⁠⁠と同じだ。

GPM⁠ケースの処理がある程度進むと、本来のOT VIII⁠ケースが姿を現す。⁠生きていることそのものがプロセスになる。⁠しかし、この段階でもGPM⁠処理が完全に終わっているのではない。
2addf594 Old Timer 2025-04-24 05:02
例えばある準OT‍が使用中の肉体に癌が見つかった場合、能力次第では癌を消すことができるかもしれない。‍しかし、転生時に記憶が封印されることを避けることができれば、癌を消すことはさほど重要ではないかもしれない。‍また、大部分の癌患者は怪我や他の病気で死なずに済んだので、長く生きて癌で死ねるということに気がつくこともできるかもしれない。‍菜園はそういう悟りをもたらしえる。
0be77dd9 anonymous 2025-04-24 11:27
>>2addf594

「例えばある準OT‍が使用中の肉体に癌が見つかった場合、能力次第では癌を消すことができるかもしれない。‍」

⇨サイエントロジーでは、ノーイングネスも、ヒーリング能力も、同じ「注意力(観察力・エネルギー・電子・プラーナ・気)」の範疇です。サイエントロジーは、「注意」に始まり、「注意」に終わるものです。

「しかし、転生時に記憶が封印されることを避けることができれば、癌を消すことはさほど重要ではないかもしれない。‍」

⇨転生時の記憶喪失以前に大きな問題は、この惑星における先進諸国の少子化(人口減少)です。発展途上国も含めて、個体を選り好みしなければ転生のサイクルは短くなりますが、現状においては先進諸国における転生待機組が増加しており、個体不足は深刻な問題です。これが転生のサイクルを長期化させており、転生に何十年も待たされるケースも常態化しています。優良で家柄の恵まれた個体になれば、倍率が跳ね上がることになるます。いったん、霊界(サイエントロジーで云うインプラントステーション/仏教で云う中有)に逝ってから、記憶とアイデンティティの大半を喪失した状態で、地上に戻されて放置されるケースも報告されています。彼ら(ビーイング)は、いわゆる幽霊となって、転生のチャンスが回ってくるまで何十年と地上を徘徊し続けるしかありません。故に、転生時の記憶保持能力とともに、短期間で転生を果たすための転生時の個体獲得能力(他のセイタンを押し退ける比較優位のパワー)が必要でしょう。

「また、大部分の癌患者は怪我や他の病気で死なずに済んだので、長く生きて癌で死ねるということに気がつくこともできるかもしれない。‍菜園はそういう悟りをもたらしえる。」

⇨自らの運命を悟ることはできるが、自らの運命をコントロールできないという状態は、切ないものではないでしょうか?人生には、知らなくて良いものといいものがあります。特に、自分が解決できない問題に関してはそうです。
4e41103c anonymous 2025-04-24 15:44
>>0be77dd9
準OTにとって癌は
・BT処理により治療できるかもしれない
・続きは新しい肉体でやればよいので、現在のボディーに固執する必要はない
・ボディーを捨てる手段の1つ(そのように設計されているかと)
ということだと思いますが…
4f4f596a anonymous 2025-04-24 18:58
>>4e41103c

準OTにとって癌は

「BT処理により治療できるかもしれない」

⇨BT処理がヒーリングの代替となり得るという解釈は疑問です。

「続きは新しい肉体でやればよいので、現在のボディーに固執する必要はない」

⇨出生地や個体を選り好みしなければ、世界的な少子化傾向にあっても、数年で転生できるかもしれませんが、例えば北朝鮮のような圧政国家やシリアのような紛争地域等に生まれた場合、日々生存することで精一杯で、命の危険を犯して脱北に成功しない限り、サイエントロジーのプロセシングやトレーニングに励むことは不可能でしょう。

「ボディーを捨てる手段の1つ(そのように設計されているかと)」

⇨肉体を捨てることができるのは、優良な個体を比較優位のパワーで獲得できる状態の高いセイタンだけでしょう。公開されているレベル(BT処理止まり)のプリ・OTが、肉体から自由になれるとは思いません。自然治癒力も機能しない欠陥状態の肉体をコントロールできないケースレベルが、何の「設定」なのか、私には理解しかねます。それは、ゲームの設定の話でしょうか?あるいは、カルマ(バンク・ケース・インプラント)の設定でしょうか?
752ee12c Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-25 07:22
>>2addf594

俺が書いた。
1364a8f9 Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-25 07:31
>>0be77dd9

肉体から離れて次の肉体を獲得するまでの期間が長くなるほど、魂の能力は総合的に改善する。⁠人口参照局は西暦元年の人類人口を約3⁠億人と見積もっている。⁠そのころには⁠『ヨハネによる福音書』 ⁠なども示すように、記憶保持者が今よりずっと多かった。

俺がもしも1960年代のコンゴで生まれていたら、3⁠歳で死んでいただろう。⁠今後俺が癌で死んでも脳内出血で死んでも、長生きできたからこそそういう死に方ができたことになる。⁠記憶保持ができれば、むしろ早めに肉体を交換するほうが合理的とも思えるかもしれない。
fbae8a28 Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-25 07:53
>>4e41103c

BT処理が癌を治療するかどうかは分からない。⁠魂が肉体を操作する手段はいくつもあって、その中にはだれでもできるものやOT⁠的な能力を必要とするものもある。

菜園の方法論で癌に効きそうなのはグレードI⁠だ。⁠癌は問題の一つで、問題を解決する能力は新たに問題を抱え込む能力にほぼ比例する。⁠癌のことばかり考えていると直すのは難しくなる。⁠立花隆や森永卓郎は癌を気にしすぎた。⁠鳥越俊太郎が手術室に運ばれていく様子を見た看護師の一人が、⁠「こんなに陽気な癌患者は見たことがなかった」と言ったそうだ。⁠鳥越は3⁠度も癌の転移を経験したが、今なお生きている。

OT⁠的な能力以外に、例えば、料理の腕前が癌を抑制する力になることもある。⁠神尾哲男は末期癌を抱えたまま14⁠年間生きた。⁠彼と同じ種類の癌のステージ4⁠患者の5年生存率は50%、10⁠年生存率は30%⁠ほどなので、知識と技能が癌を抑制する力になることもあるのかもしれない。
1d46bdaf anonymous 2025-04-25 11:45
>>1364a8f9

>肉体から離れて次の肉体を獲得するまでの期間が長くなるほど、魂の能力は総合的に改善する。

⇨中間生(霊界)で何も処理が施されていない場合は、理論上はそうなるはずなんですが、多くのビーイングは外在化(360度のパノラマのクリアな視覚とホモ・サピエンスの知覚と超感覚を含む完全な知覚能力を持つ)ではなく幽体離脱の状態で臨終を迎えるために、転生待機期間に関わらず非常に状態が悪いです。ホモ・サピエンスの五感は使えなくなりなり、ホモ・サピエンス並みかそれ以下の一方向の(立体視のできない/視野狭窄の)不鮮明な視覚と聴覚は存在しますが、その他の肉体的知覚(温度感覚・痛覚・味覚・そよ風の感覚など)を喪失しますし、前世どころか直近の人生の記憶とアイデンティティの大半を喪失して、記憶喪失あるいは認知症の状態で、地上を長期間あてもなく徘徊するだけです。誰かが、コミュニケートしてARCストレートワイヤーを施さない限り、彼らはPT(現時点)に戻ってこないでしょう。
8fb39612 anonymous 2025-04-25 11:52
>問題を解決する能力は新たに問題を抱え込む能力にほぼ比例する。⁠

⇨新たに問題を抱え込むというのは、より多くの問題を抱え、より大きなゲーム(問題)を創造すると理解して良いでしょうか?問題を解決する能力は、問題をデュプリケーション(再創造)する能力と等しいとも言われますね。

>料理の腕前が癌を抑制する力になることもある。

⇨料理の腕前が、どのように(メカニズムとして)癌を抑制することに関わるのでしょうか?
d6b31939 Old Timer i1b5ibip3kS 2025-04-26 03:25
>>1d46bdaf

記憶が封印される場合、封印が起こるのは転生の直前になる。⁠肉体から離れるだけでは、記憶の封印は起こらない。⁠また、記憶が封印される場合でも、全てが封印されるのではない。

肉体が死んで、その肉体から離れた際に、安定した記憶再生能力がある魂はこの物質宇宙のどこかの場所を見る。

記憶再生能力が不安定ならば、自分の心の中にある比較的大きな記憶封印装置の内部を見ることになる。⁠記憶封印装置は実行スイッチを持ち、⁠「聖者」と⁠「賜物」で構成され、いずれも多様な形態を持つ。⁠熱心な教会菜園人が見る⁠「聖者」は幅度の姿を成し、⁠「賜物」はその幅度による聴聞の形を成すだろう。⁠⁠⁠アメリカ人に多いのは 神 と 次の母親 だ。⁠「聖者」と⁠「賜物」をシカトできれば、過去のいくつかの生涯の記憶が再生された状態で転生することになる。

記憶の封印を免れやすい職業は、俳優と諜報員だ。⁠いずれも自分のビーイングネス以外を演じる仕事で、⁠「聖者」と⁠「賜物」に対する耐性が強まる。⁠不運による死も記憶の再生を起こりやすくする。⁠(俺たちはウラジーミル⁠・プーチンと長く付き合うことになりそうだ……)
12135dcc anonymous 2025-04-26 08:54
>>d6b31939

>記憶が封印される場合、封印が起こるのは転生の直前になる。⁠

⇨記憶の封印のタイミングはともかくも、地上を徘徊するビーイング(幽霊)の場合は、記憶の「封印」というより、記憶の「喪失」であり、恐らくは脳や神経を含む肉体との接点を失った結果による記憶の喪失であり、ホモ・サピエンスの健忘症や認知症といった肉体的な機能不全に起因するものと思われます。

特に、三途の川や地獄沼といった霊界を記憶しているビーイングの場合、記憶やアイデンティティの喪失が甚だしくはなく、三途の川や地獄沼を抜けてから一旦地上に戻されて放置される過程を覚えているケースが多いのですが、三途の川や地獄沼の記憶を失っているケースでは、生前の肉体の記憶とアイデンティティや家族や死因等の大部分の記憶を失っており、ほぼホモ・サピエンスに記憶喪失や認知症の症状と同じ状態にあるのです。気が付いたら、いつの間にか半透明のボディ(幽体)になっていて、誰からも認識してもらえず、肉体を失っていることに気付くという状態です。
c5e4ae82 anonymous 2025-04-27 22:08

アバター・コースなどの内製由来の派生メソッドは別として、サイエントロジーのデータを表面的に流用して、それを世俗スピリチュアル系の概念と用語に置き換えて、劣悪なクオリティのメソッドとして売り出すという手口が、2000年代以降多発している。宗教それ自体は危険ではない。非宗教を装った宗教こそが最も危険なのである。
99542b5b anonymous 2025-04-28 09:03
>>c5e4ae82

サイエントロジーと類似のデータが他の世俗スピリチュアル系の書籍やメソッドにも存在するというだけで信じてはいけない(データの真実性を判定してはいけない)。

全く異なる方法論と調査研究に基づいて、サイエントロジーと同じ結論に至ったなら信じるに値するが、単に結論が類似していることを以ってデータの真実性を判定するならば、アービトラリー(独断的誤謬)に陥るだけである。

方法論及び調査研究の方法や臨床データ無しに、サイエントロジーと類似のデータが存在するということは、そのネタ元がサイエントロジーであり、結論だけを流用したというだけであり、それがいくら増殖しようが、サイエントロジーのデータの結論が使い回されているということに過ぎない。

人間は、異なる源から同じ結論を見聞する回数が増えるほど、データの検証無しに、そのデータの真実性を判定してしまう。これは、認知バイアスであり“信仰”の一種である。信仰とは無明であり、悟りと正反対のベクトルなので、悟りあるいはノーイングネスに至りたいならば、信仰を捨て去らなくてはならない。
eb735212 anonymous 2025-04-28 10:08
>>d6b31939

>アメリカ人に多いのは 神 と 次の母親 だ。⁠

「次の母親」とは何ですか?また、イエスでなく神なのはなぜですか?神とイエスの両者に遭遇したという報告ならば、臨死体験抜きに、米国のキリスト教会で多数の報告が存在します。その中には、元イスラム教徒も含まれています。
e554d851 anonymous 2025-04-28 23:26
>>99542b5b

行学を極めるほど疑いが生じる。これは、自然なことである。疑い晴れぬまま、疑いの心を押し殺して信じることを信仰(無明・盲目の状態で信じること)と云う。疑いを重ねて、もう疑うものが何もなくなり、あらゆる疑いを晴らした状態が、仏教における信(確信)である。それは、もはや疑うものが何も残っていないという意味での信である。疑うものが何も残っていないゆえに、学ぶべきことも何も残っていないのであり、これを無学という。無学とは、無上の悟り(無上正覚)を成就した状態である。

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