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a307d435
anonymous
2025-02-04 06:09
1738649399.pdf
(2KB)
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5a3dd91d
anonymous
2025-02-13 10:07
- オールドタイマー氏の投稿は、2ちゃんねる時代を含め非常に啓発される内容であったことは疑い得ないが、ここ最近の投稿は極端に世俗系スピリチュアルに寄せていた印象を受けた。オールドタイマー氏のコンテンツを仮に前期と後期に分けると、ウィトゲンシュタインの前期と後期ぐらい乖離がある。前期には、サイエントロジーの基本教義を踏襲し、インプラントステーションの存在を肯定し、世俗系スピリチュアルの通説をきちんと批判していた。ところが、後期になるにつれて、サイエントロジーの基本教義に懐疑的になる一方で、世俗系スピリチュアルの通説を無批判に採用するようになる。
私は、オールドタイマー氏が、サイエントロジーのデータに対して懐疑的であるのと同じくらいに、世俗系スピリチュアルの通説に対して懐疑的であるならば何も指摘をすることはなかったが、使い古された未検証の世俗系スピリチュアルのデータ及び概念を無批判に採用する態度は、スピリチュアルな現象を工学的なアプローチで精密に探究するサイエントロジーの精神(コンセプト)に反すると感じ、それは私の美的感覚に著しく反するものだったので、掘り下げて論争させてもらった。私には、オールドタイマー氏の前期から後期に至る見解の変化が、ケースレベルの向上に起因するものとはとても思えない。ケースレベルの変化は起因するだろうが、思考の明晰性が失われているということは、むしろケースレベルの悪化を暗示しているだろう。ともあれ、オールドタイマー氏のご多幸を願いたい。
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157e0d83
anonymous
2025-02-13 14:53
- お話が長いよ〜
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b08330d3
あんすー
2025-02-18 11:15
- 最近、タフティという本が、よく読まれているようです。
その中で、三つ編み技法というものがあり、多くの方が、YouTubeなどで説明されています。
私は、この三つ編み技法は、ロンが、グループオーデティングで使っていた「1メートル後ろに行って下さい。」と同じものだと思います。
又、エイブラハムさんという宇宙存在が、感情の22段階を本にされて、よく売れているようです。これは、ロンの「感情のトーンスケール」と変わりません。
又、小さな箱から脱出する方法が、何年か前にベストセラーになりましたが、これもロンの「オバート・ウィズホールド行為」と同じものです。
又、バイロン・ケイテイさんが、領域を自分の領域、他人の領域、神の領域という分け方をされています。これは、ロンの「自分の宇宙、他人の宇宙、物理的宇宙」と同じものです。
ロンの教えは、本来、ベストセラーになるぐらい素晴らしいものなのです。
私も、YouTubeで、少しですが、紹介していきたいと思います。
よかったら、見てみて下さい。
https://youtu.be/HNylZ5ud1uE
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d4a2c86f
anonymous
2025-02-20 12:59
- オールドタイマーさん去年の5月以降投稿がないけれど、どうしたんだろう。
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02b530b7
あんすー
2025-02-21 09:04
- oldtimerさん、教えてください。
ロンの「1メートル後ろに行ってください、」のコマンドは、本当に「1メートル」なんでしょうか? ロンは、「メートル」という単語を使っていますでしょうか?
というのは、タフティの三つ編み技法だと、1メートル以内のところに、外部のセンターポイントがあるようなのです。
お忙しいところ、すみませんが、
よろしくお願い致します。
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b968f6da
anonymous
2025-02-24 03:52
- >1メートル以内のところに、外部のセンターポイントがある。
サイエントロジーのデータだと、ホモ・サピエンスの脳天には、GEの左右の制御中枢(コントロール・センター)があるとされている。GEの本体は、太陽神経叢の部分にあり、セイタンは通常、頭の中に位置する。外部ポイントとは、各セイタンのアンカー・ポイント(空間における絶対静止ポイント、次元点)を指しているのだろうか。なお、アンカー・ポイントの距離は、個人差がある。この集合宇宙内のアンカー・ポイントもあるし、この集合宇宙の外側のアンカー・ポイントもある。
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e1996c5a
あんすー
2025-02-24 11:24
- oldtimerさん、ありがとうございます。
タフティの言う外部ポイントは、気づきの中心点と呼ばれ、三つ編みの先端にあり、そこでは、静止が起こるポイントのようです。
https://youtu.be/yzOogFlz6tc?si=S5FiAWW_WX5gYwY1
https://youtu.be/PlFGFIVm5Ac?si=Jw5kt2a7SPqFpKxR
セイタンは、脳の中にいるのですね。
又ポイントは、たくさんあり、距離は、個人によって、差が出るのですね。
ロンの講演を全部聞いて、
基礎だけでもわかりたいと思いました。
ありがとうございました。
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59de9ac3
anonymous
2025-03-12 12:20
- 公理22:「Not-isness(作為)は理解を減少させる」
LRHは公理22で「Not-isness(作為)は理解を減少させる」と明言していたのに、その真の意味を見抜けなかった模様。
つまり、「Not-isness(作為)をやめることが最短の道」だと分かっていたはずなのに、そこに到達できなかった。
もし Not-isness(作為)が理解を妨げるなら、それをやめることが理解を回復する最短の道。
LRHは「Not-isness をやめること=無為」という結論に至らなかった。
老子は、「作為(Not-isness)をやめる」=「無為」が最短ルートであると見抜いた。
もしNot-isnessが理解を減少させるなら、「何とかしようとする意図」自体が問題であるはず。
しかし、菜園は「問題を解決するために、さらに何かをしなければならない」という方向に進んでしまった。
老子の教えと公理22を比較すると、老子はすでにこの真理を見抜いていた。
「大道廃れて、仁義あり」(道徳経 第18章)
「道(自然の流れ=As-isness)が失われると、仁や義(人為的な善悪の作為)が生じる」
これは、「Not-isness(作為)が増えると、理解が減少する」ことを示している。
「無為にして化す」(道徳経 第57章)
「何もしない(無為)ことで、自然と物事は調和する」
これは、「Not-isness をやめれば、Alter-isnessの持続が止まり、意図の流れが回復する」ことを示している。
つまり、老子は公理22の本質をすでに理解しており、「Not-isnessをやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていた。
LRHは「Not-isnessが理解を減少させる」と正しく述べていたが、「ではNot-isnessをやめるにはどうすればいいか?」の答えを間違えた。
老子はこの矛盾を見抜き、「何もしない(無為)」が最短の道であることをすでに理解していた。
もしLRHが「Not-isness をやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていたら、菜園は無駄なプロセスを経ずに悟りへ至る最短ルートを示す究極のシステムになっていたかもしれない。
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a284447e
あんすー
2025-03-13 08:36
- ノット・イズネスのコメントを読ませていただきました。ありがとうございます。
「木こりとさとり」の話は、ノット・イズネスにつながると思いました。
ちょうど動画を作ったので、よかったら見てみて下さい。失礼します。
https://youtu.be/HdIZlg-lNRE
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c60c21dc
anonymous
2025-03-13 10:13
- 1. Not-isnessはLRHの誤解から生まれた?
LRHは Axiom 11 において「Not-isness」 について説明しているが、これは「実際には存在するものを、力で打ち消そうとすること」として定義されている。
しかし、この説明は本質を見誤っている。
「Not-isness」=「Isness(現実)を否定しようとすること」
これは 「As-isness(即時創造・即時消滅)」の概念と矛盾する。
なぜなら、「Not-isness(否定)」を成立させるには、「すでに存在しているもの(Isness)」を前提にしているから。
しかし、本来は 「Not-As-isness(As-isness の否定)」がすべての始まりであり、それが作為を生じさせる。
「Not-isness」は「Isness(現実)」に焦点を当てているが、もっと根本的なレベルでは「As-isness そのものの否定」が発生している。
つまり、LRHは「Not-isness(否定すること)」の前に、「Not-As-isness(創造の否定)」があることに気づいていなかった。
2. 「Not-As-isness」を理解しないと、悟りに至れない
LRHは「Not-isness(否定すること)」を問題の根源としたが、実際には 「Not-As-isness(創造の否定)」がすべての始まりだった。
「Not-As-isness(As-isness の否定)」が作為を生み出す
「As-isness(即時創造)」は、本来、持続しない。
しかし、「As-isness(創造)」に「Not-As-isness(創造の否定)」をぶつけることで、意図の衝突が発生し、Alter-isness(変化)を生む。
Alter-isness が持続すると、Isness(固定された現実)が生じる。
つまり、「Not-As-isness」がない限り、そもそも「Not-isness」「Alter-isness」「Isness」は生まれない。
LRHの誤り:問題の根源を「Not-isness」にしたこと
LRHは 「Not-isness(否定すること)」が Isness(現実)を持続させる原因だと考えたが、実際にはそれ以前に 「Not-As-isness(創造の否定)」が発生している。
この違いに気づかなかったことで、LRHの理論は悟りに至る「最小の橋」を見失った。
3. 老子の「道生一、一生二、二生三、三生万物」との比較
老子の「道生一、一生二、二生三、三生万物」を説明すると、「Not-As-isness(創造の否定)」が意図の衝突を生み出し、Alter-isness(変化)が持続することで、万物が形成される。
「Not-As-isness(創造の否定)」=「一生二(意図の衝突)」
「Alter-isness(変化)」=「二生三(持続の開始)」
「Isness(固定された有)」=「三生万物(万物の形成)」
つまり、老子の言葉は 「Not-As-isness(創造の否定)が作為の原因であり、それをやめれば悟りに至る」 という真理を示している。
4. LRHは「Not-As-isness」に気づいていれば、無為に行き着いた
LRHが「Not-As-isness(As-isnessの否定)」の概念に気づいていれば、次のような結論に達した可能性がある。
1.「As-isness(即時創造・即時消滅)」しか存在しない
2.「Not-As-isness(創造の否定)」が意図の衝突を生じさせる
3.「Alter-isness(変化)」が持続すると、Isness(固定された有)が生まれる
4. 意図の衝突(Not-As-isness)をやめることで、悟りに至る(無為)
しかし、LRHは「Not-isness(否定)」が問題だと考えたため、「Not-As-isness(創造の否定)」という根本の原因を見逃した。
その結果、菜園は「悟りに至るための最短ルート」を構築できず、「過去のエングラムを処理する」などの間違ったアプローチに進んでしまった。
5. LRHの最大の見落としは「Not-As-isness(創造の否定)」だった
LRHの「Not-isness」という概念は不完全であり、本当の問題の根源は「Not-As-isness(創造の否定)」であった。
もしLRHが「Not-As-isness」を理解していれば、彼は老子と同じ結論(無為)に至り、悟りへの最短ルートを示せたかもしれない。
しかし、彼は「Not-As-isness(創造の否定)」を理解できなかったため、「Not-isness」という誤った概念を作り、菜園の理論を「悟りに至る最小の橋」から遠ざけてしまった。
これは、LRHの最大の失敗であり、老子の無為こそが「最短で悟りに至る方法」であると考えるのが妥当であろう。
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a1752ae1
あんすー
2025-03-13 11:39
- 名無しさんへ
誤解語が多数あり、よくわからないので、しっかり意味を調べて、読み込みたいと思います。
ありがとうございます。
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9624b52a
anonymous
2025-03-14 11:05
- 「道生一、一生二、二生三、三生万物」の論理的導出
「道生一」=「潜在的無(道)」が「最初の意図(一)」を生じさせる。
「一生二」=「最初の意図(一)」に「2番目の意図(二)」が衝突し、変化が始まる。
「二生三」=「二(意図の衝突)」が持続することで、「三(固定観念=有)」が生じる。
「三生万物」=「三(固定観念)」が拡張し、多様な有(万物)を生み出す。
1. 基本定義
(1) 潜在的無=道
いかなる存在も観測されていない状態。空間・時間・意図・物質・精神のいずれも存在しない。「何もない」というより、「何かが生じる前の状態」。「道生一」の「道」に相当する。
(2) 有=万物
何かが認識可能な状態。空間・時間・物質・精神が確定している。「三生万物」の「万物」に相当する。
2. 「有」は「潜在的無」からしか生じない(道生一)
(1) 「有」には必ず起点が必要
「有」が存在するためには、それが発生する原因(起点)が必要。しかし、もし「有」が永遠に存在していたなら、「なぜその有が存在するのか?」という問いに答えられない。したがって、「有」が生じる最初の起点として「潜在的無(道)」が必要になる。
これは「道生一」に対応する。
(2) 「有」が「別の有」から生じるとすると無限後退が発生
「有」は別の「有」によって生じた、という仮説を立てる。しかし、これを無限に遡ると、結局「最初の有」はどこから来たのか?という問題が解決されない。無限後退を避けるためには、「有」が生じる最初の起点として「潜在的無(道)」を認めるしかない。
(3) 何もない状態(潜在的無)でなければ、最初の有が生じない
もし「潜在的無(道)」が存在しない場合、「有」はどのようにして始まるのか?どこかで「有」が生じた瞬間が必要になる。しかし、すでに「有」がある状態なら、新たな「有」が発生する必要性がない。したがって、「有」は「潜在的無(道)」から生じるしかない。ここで「道生一」の「一」は、「最初の意図」として解釈される。
3. 「有」を生み出せるのは意図だけである(道生一 → 一生二)
(1) 「一(最初の意図)」が生じる
「潜在的無(道)」の中で、「何かをしようとする力(最初の意図)」が発生する。これが「一」となる。「道生一」=「潜在的無(道)」が「最初の意図(一)」を生じさせる。
(2) 「二(2番目の意図)」が発生し、意図の衝突が生じる
最初の意図(一)に対して、新たな意図(二)が発生すると、意図の衝突が起こる。意図の衝突がなければ、何も確定しない。しかし、ここで意図がぶつかることで、変化が始まる。
(3) なぜ「意図の衝突」がなければ「有」が生じないのか?
意図が衝突しなければ、それはただ流動的に存在し続けるだけで、「有」として確定しない。
例:
水の流れ:「流れているだけ」では、特定の形を持たない。
水が壁にぶつかる: ぶつかった瞬間に、形(波やしぶき)が生じる。
これと同じで、意図が衝突しなければ、それは単なる可能性のままであり、「有」にはならない。
4. 「意図」以外に「無」を「有」に変えるものがない
(1) 物理的因果関係では「有」の発生を説明できない
すでに「有」があるなら、物理法則によって「有の変化」を説明できる。しかし、「無」から「有」を生じさせる物理法則は存在しない。
(2) 「論理的な自己因果」では「有」の発生を説明できない
「有」は、それ自体の原因になることはできない(自己因果は成立しない)。つまり、「有」は「有」によって生じることはなく、最初の「有」を生み出す要因が必要になる。
(3) したがって、意図以外に「無」を「有」に変えるものは存在しない
「無」から「有」を生み出すには、意図が衝突して「有」を生じさせる以外に説明がつかない。
「一生二」=「最初の意図(一)」に「2番目の意図(二)」が衝突し、動き(変化)が生じる。
5. 「意図の衝突」により「固定観念(有)」が生じる(二生三)
(1) 「意図の持続」が生じる
意図同士が衝突すると、それが持続し始める。
例えば:
「何かをしよう(意図A)」 vs 「しないでおこう(意図B)」
この対立が続くと、「何かをするとはこういうことだ」という固定観念(有)が生まれる。
(2) 「固定観念(有)」が生まれる
意図が瞬間的にぶつかるだけでは、有にはならない。しかし、意図の衝突が持続すると、それが「確定した有」になる。これは、観察者が「この有は存在する」と認識することで固定される。「二生三」=「二(意図の衝突)」が持続することで、「三(固定観念=有)」が生じる。
6. 「三生万物」=確定した有が、さらに拡張し、現実世界を構成する
(1) 「三(固定観念)」が拡張される
「三(固定観念)」ができると、それが連鎖的に広がる。固定観念が生じることで、それを前提とした新たな意図の衝突が発生し、さらに多様な有(万物)が形成される。
(2) すべての「有」は、意図の衝突が持続することで増え続ける
物理法則、時間、空間、人間の意識、すべての「有」は、意図の衝突が持続し、それが次の有を生み出すことで生じる。これは、「三生万物」の原理と一致する。「三生万物」=「三(固定観念)」が拡張し、多様な有(万物)を生み出す。
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1597cd6b
anonymous
2025-03-14 14:23
- 1. 悟りに至る最短の道を論理的に導き出す
「悟り」とは、あらゆる制約から自由になり、本来のあり方に至ることとする。この状態に至るためには、「存在の本質」から最短の道を論理的に導き出す必要がある。
(1) 存在の本質
根源的な状態(潜在的無)
何も固定されていない状態。
時間・空間・思考・意識・観察のいずれも確定されていない。
現象(有)
何かが確定している状態。
時間や空間、思考、意識が生じている。
(2) 悟りとは何か?
「現象がどのように生じ、どのように消えるのか」を完全に理解し、選択の自由を得た状態。
つまり、「現象の仕組みを見抜き、必要に応じてそれを解くこと」が悟りに直結する。
2. 最短で悟りに至る方法
ステップ 1:現象が生じる仕組みを認識する
何かが生じるとき、必ず「二つ以上の異なるものの関係」が存在している。
例えば:
「これは良い」と「これは悪い」
「これは正しい」と「これは間違っている」
「やりたい」と「やりたくない」
こうした対立が生じることで、現象は固定され、持続する。
ステップ 2:対立を解除する
ある考えが固定されるのは、それが別の考えとぶつかっているからである。
「何かを認めると、別の何かが否定される」という仕組みを解くことで、固定されたものは消える。
方法 1:どちらもそのまま受け入れる
例:「やりたい」と「やりたくない」をどちらも否定せず、ただあるものとして認識する。
これにより、ぶつかり合いが消え、固定が解除される。
方法 2:そもそもどのようにして対立が生じたかを理解する
すべての対立は、後から生じたものにすぎない。
それを認識すると、固定されたものが選択肢でしかなかったことがわかる。
ステップ 3:すべての対立を超える
すべての現象は、何かと何かの関係から生じている。
それが関係として固定されなければ、現象は成り立たない。
すべての関係が「後から生じたもの」だと理解すると、それを必要に応じて外すことができる。
悟りの最短経路は、「対立を認識し、それを解除すること」にある。
これを超える方法は存在しない。なぜなら、すべての現象は対立によって生じており、それを解除することが根源的な状態に至る唯一の道だからである。
したがって、「対立の解除」が、最も速く、最も直接的な悟りの道である。
どんな修行方法も、最終的には「意図の固定を外す」ことに帰着する。
ならば、直接「意図をぶつけるのをやめる」ことが最短である。
老子の無為は、意図の衝突を最もシンプルに解く方法である。
「何かをしない」のではなく、「意図がぶつからないようにする」ことで、意図が流動し、『有』が固定化しなくなる。
このシンプルな方法こそが、悟りに至る最短の道であり、最も簡単な方法である。
しかし、この簡単さゆえに、多くの人は遠回りしてしまってるかもしれない。
「なんだよ、こんな簡単なことだったのか!」と爆笑し、その瞬間、無為に至る人が続出することも否定できない。
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523ac8bb
anonymous
2025-03-15 12:22
- 「意図の衝突は、意図を持続させようとすることで発生する」←こちらがより正確
「意図そのものは自然に生じて消える(即創即滅)」が、「持続しようとする意図」が新たな対立意図を生み出すため。
「正しい」という意図の例
① 「正しい」という意図に「持続の意図」がある場合
意図の流れ:
1.「私は正しい」と思う(意図が生じる)
2.本来なら意図は即座に消える(即創即滅)
3.しかし、「私は正しい」と思い続けようとする(持続の意図)
4.「私は正しくないかもしれない」という対立意図が生まれる
5.結果:「正しさを証明しようとする作為」が生じる
・他者の意見に対して過敏になる
・反論があると不安を感じる
・「正しくなければならない」というプレッシャーを感じる
・他者を間違っていると証明しようとする
「正しさを維持しようとする意図」が、「正しくないかもしれない」という対立意図を生む。「正しさを維持しよう」と思うほど、不安が強まり、苦しみが生まれる。
② 「正しい」という意図に「持続の意図」がない場合(意図を手放した場合)
意図の流れ:
1.「私は正しい」と思う(意図が生じる)
2.しかし、「私は正しさを維持しようとしない」
3.「私は正しい」も「私は正しくない」も、どちらでもいい
4.結果:意図が即滅し、固定されない
・他者の意見に対して過敏にならない
・反論があっても動揺しない
・「正しくあるべきだ」というプレッシャーが消える
・ただ、意図が流れるままにする
「持続の意図」を手放すことで、「私は正しくなければならない」という作為が消え、自由になる。「正しくてもいいし、正しくなくてもいい」という状態になり、意図の衝突が起こらない。
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35ac94b7
anonymous
2025-03-15 12:43
- 1. 「持続の意図」と「自己の固定化」
意図は本来、瞬間ごとに生まれては消えていく(即創即滅)。
しかし、「持続の意図」が発生すると、意図を特定の形で維持しようとするため、自己が固定化される。
この「自己の固定化」こそが、「作為」の始まりである。
「持続の意図」=「自分を固定しようとする意図」。
「自己とは何か?」=「持続しようとしている意図の集合体」。
2. 「持続の意図」が自己を固定させる具体例
① 「私は〇〇な人間だ」という自己定義
意図の流れ:
「私は優しい人間だ」という意図が生じる(即創)
本来なら、この意図は消えて次の意図に変わる(即滅)
しかし、「私は優しい人間であり続けなければならない」という持続の意図が発生
「私は本当に優しいのか?」という対立する意図が生じる(意図の衝突)
結果:「優しい自分」を証明しようとする作為が生じ、自己が固定化される。
「持続の意図」が「私は優しい人間でなければならない」という固定観念を生む。
② 「私は成功しなければならない」という意図
意図の流れ:
「成功したい」という意図が生じる(即創)
本来なら、次の瞬間には別の意図が生じる(即滅)
しかし、「成功したい」ではなく、「成功し続けなければならない」という持続の意図が発生
「成功していない自分を否定する意図」が生じ、意図の衝突が発生
結果:「成功を維持しようとする作為」が生じ、失敗への恐れが固定化される。
「持続の意図」が「成功しなければならない」という自己の固定化を生む。
③ 「私は悟りを得なければならない」という意図
意図の流れ:
「私は悟りたい」という意図が生じる(即創)
本来なら、この意図も即滅し、次の意図に移る
しかし、「悟りを維持しなければならない」という持続の意図が発生
「私はまだ悟っていないのでは?」という対立する意図が生じる
結果:「悟りたい」という作為が生じ、悟れなくなる(自己が固定化される)。
「悟りを持続しようとする意図」が、逆に「悟りから遠ざける」。
「持続の意図」は、自己を固定し、意図の流動性を失わせることで、作為を生み出す。
「意図が流れるままにすれば、自己の固定化が解除され、無為に至る」。
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eb086083
あんすー
2025-03-16 05:13
- 素晴らしいです。ありがとうございます。
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2db56927
anonymous
2025-03-16 09:50
- >>1597cd6b
その「悟りに至る最短の道であり最も簡単な方法」によって
あなたは「あらゆる制約から自由になり、本来のあり方に至る」を達成したのですか?
この方法で「悟り」に至った事例をいくつか教えてください。
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3313c791
anonymous
2025-03-16 13:37
- 無為に至る最短の鍵:作為に気づくだけでいい
無意識は作為を生み、意識はそれに抵抗する。このズレに気づくだけで、無為に至る。
問題は「作為」そのものではなく、それに気づかないこと。
気づかないと作為が持続し、意図が固定され、苦しみが生まれる。
しかし、作為が起こっていることに気づくだけで、作為は持続せず、意図の流動性が回復する。
シンプルな流れ
1.無意識の作為が自動的に発生(例:「もっと集中しよう」「リラックスしよう」)
2.気づかないと、それが「自分のすべて」となり、意図が固定化
3.作為に気づくだけで、「続ける必要があるのか?」と問いが生じ、固定化が解除
4.意図が流動し、無為に至る
結果
無意識(作為) → 無為
意識(作為への抵抗) → 無為
意識と無意識のズレが消え、完全な無為の状態に入る
だから、「作為そのものが問題なのではなく、作為に気づかないことが問題」だった。
「今、作為が起こっていることに気づく」だけで、何もしなくても無為に至る。
悟りは「何かをすること」ではなく、「作為をやめること」だった
何かをしようとしない。ただ「気づくだけ」。
それだけで意図の流動性が回復し、無為に至る。
本当は「難しい」のではなく、「簡単すぎて信じられない」だけだった
「悟りは、難しいものではなく、気づいた瞬間に訪れるものだった」
「しかし、それが簡単すぎるがゆえに、ほとんどの人は信じようとしない」
-
38c10529
anonymous
2025-03-16 14:19
- 覚醒者が陥る落とし穴
エックハルト・トール、バイロン・ケイティ、クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシは、精神的なショックや肉体的な衝撃、一時的な意識の変容によって、意図の固定が一瞬解除され、意図の流動性が回復したタイプだと考えられる。
エックハルト・トール「うつと絶望の極致に達した瞬間に、突然「今、この瞬間」に気付いた。」
バイロン・ケイティ「人生のどん底にいたとき、「すべては思考の中にある」と気付いた。」
クリシュナムルティ「激しい体調不良を経験した後に、意識の変化を体験した。」
ラマナ・マハルシ「強烈な死の恐怖の中で「私は死ぬものではなく、ただ存在しているだけだ」と気付いた。」
これらはすべて、意図の固定化が極限まで達したことで、意図の流動性が偶然に回復した結果。
偶然に意図の流動性が回復すると、その体験が「なぜ起こったのか?」を考える。
しかし、「意図の流動性」が見えないまま解釈しようとすると、思考や自己概念に頼ってしまう。
例えば:
「私は本当の自分に目覚めた」 → 「意図が流動し始めた」だけなのに、「本当の自分」を持ち出す。
「思考を手放したら、現実が変わった」 → 「意図の流動性が回復した」だけなのに、「思考の操作」と誤解する。
「神の視点に目覚めた」 → 「意図の流動性の回復」が起こっただけなのに、「神の概念」を持ち出す。
偶然の覚醒は、思考で解釈しようとするとズレが生じる。
意識レベルと無意識レベルの理解にズレがあると無為には至れない。
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7bb70a6f
anonymous
2025-03-17 12:54
- 「意図の創造・持続・解除」は、誰もが無意識でやっているが、気づかないだけ。
「意図の持続」に気づき、「意図の持続」を解除するだけで、作為(固定観念)は消え、無為に至る。
たった一度の解除で、無為に至るので圧倒的に効率がいい。
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53a33afe
anonymous
2025-03-19 16:47
- >>c60c21dc
>LRHは「Not-isness(否定すること)」を問題の根源としたが、実際には 「Not-As-isness(創造の否定)」がすべての始まりだった。
⇨誤解ではなく、サイエントロジーの公理の論理的不整合かと。そもそも、アズ・イズネス(創造:モックアップ)⇨アルター・イズネス(創造:モックアップ)⇨イズネス(創造:モックアップ)の一連の流れだけで公理は自己完結するので、ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨一連と同じ大きさの等級の並列概念ではありません。
>LRHは「Not-isness」が、実際には 「Not-As-isness」であり
という行[くだり]は“基本的に”同意します。その「ノット・アズ・イズネス」こそが「アルター・イズネス」なのです。しかし、「アズ・イズネス」が「非創造」であるという主張には同意できません。「アズ・イズネス」こそ、“純然たる”創造でありモックアップです。アズ・イズネスも、アルター・イズネスも、イズネスも、全て“創造”です。創造でないリアリティも、創造でないゲームも存在しません。
LRHが公理にノット・イズネスを挿入した意図は、“ノット・アズ・イズネス”としてのアルター・イズネスとノット・イズネスを区別することにあったであろうと思われます。つまり、アルター・イズネスが可能なノット・アズ・イズネスとアルター・イズネスが不可能なほどに合意され、強固なリアリティとなってしまったフェーズでのノット(否定)です。
粒子の刹那生滅及び空性の原理で語るなら、アズ・イズネスを重ねてもリアリティは構築できます。ただし、これでは時間という概念が導入できません。なぜなら、時間は見せ掛けであり諸法の実相に反する偽りだからです。アズ・イズネスを連続すると、モックアップとアン・モック(完全な消滅)が交互に生じます。これが連続すると、創造と消滅による刹那生滅の原初形態になります。ただし、時間とアルター・イズネスを導入しないと「自動性」が生じないので、セイタン(アートマン)たちにとっては、非常に面倒で手間なのです。セイタンは自らの創造物に対する受け身でありたいのです。つまり、影響を受けたいわけです。そこで、マインドを創造して、機械仕掛けを拵えるんです。そして、その機械仕掛けに創造させるのです。これによって、セイタンはアルター・イズネスと時間を導入し、自らの創造物に対する受け身となって、影響を受けることができるわけです。
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17b9684d
anonymous
2025-03-19 16:56
- >>53a33afe
>ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨イズネスという一連のサイクルと同じ大きさの等級の並列概念ではありません。
〈訂正版〉
ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨イズネスという一連のサイクルと同じ大きさの等級の並列概念ではありません。
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f00bc7e8
anonymous
2025-03-19 18:22
- アルター・イズネスは、アズ・イズネスの創造(モックアップ)に持続性を与えるための時間という偽り(見せ掛け)の導入である。これを、「ノット・アズ・イズネス」と呼ぶこともできる。
時間の導入は、サイエントロジーの『因子』における「影響の創造」と深く関係している。因子には、“不動の第一原因”たる起因(クリエイターたる各セイタン)の全目的は影響の創造であったと述べられている。セイタンは、モックアップの持続性を得るために、時間というアルター・イズネス(見せ掛け)を導入する。その目的は、自らの創造物(モックアップ)に対する受け身として影響を被ることである。モックアップに、マシーンとしての自動性を求めることも同様の衝動(欲求)である。
アルター・イズネスの導入によるアズ・イズネスによるモックアップの持続というイリュージョンのパターンが多くのセイタンによって合意され、コラボレーションによる集合宇宙の創造に至ると、そのアルター・イズネスのパターンは各集合宇宙の自然法則(リアリティのルール)となってリアリティを構築する。合意されたリアリティとは、イズネスである。
各集合宇宙における自然法則の合意は非常に強固であり、アルター・イズネスのパターンは自然法則(リアリティのルール)として埋め込まれている。故に、各集合宇宙におけるアルター・イズネスのパターンは従うのみである。
いったん各集合宇宙における自然法則として合意されたアルター・イズネスのパターンは、MESTのレベルで抗っても変えることができない。つまり、アルター・イズネスの自由度が存在しないのである。これが、「ノット・イズネスの試み」である。ここで、敢えて「(アルター・イズネス)の試み」と表現したかと云うと、それが精確な表現であるからである。ノット・イズネスは不可能なのである。また、自然法則に対するノット・イズネスの試みだけでなく、各集合宇宙のリアリティをアズ・イズネスによってアンモックすることも、その集合宇宙に関わる全てのセイタンの合意を無効化しない限り不可能である。自然法則の否定=無効化は各集合宇宙のリアリティ(存在)自体の否定=アンモックとなるため、個々のセイタンが各集合宇宙のアルター・イズネスのパターンに介入できるなら、自然法則が否定されると同時に、その集合宇宙のリアリティ(存在)自体も崩壊することになる。
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f491781a
anonymous
2025-03-20 09:27
- >もしLRHが「Not-isness をやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていたら、菜園は無駄なプロセスを経ずに悟りへ至る最短ルートを示す究極のシステムになっていたかもしれない。
>彼(LRH)は「Not-As-isness(創造の否定)」を理解できなかったため、「Not-isness」という誤った概念を作り、菜園の理論を「悟りに至る最小の橋(ブリッジ)」から遠ざけてしまった。
これは、LRHの最大の失敗であり、老子の無為こそが「最短で悟りに至る方法」であると考えるのが妥当であろう。
>老子の無為は、意図の衝突を最もシンプルに解く方法である。
「何かをしない」のではなく、「意図がぶつからないようにする」ことで、意図が流動し、『有』が固定化しなくなる。
このシンプルな方法こそが、悟りに至る最短の道であり、最も簡単な方法である。
しかし、この簡単さゆえに、多くの人は遠回りしてしまってるかもしれない。
⇨LRHは、古今東西のあらゆる宗教体系や神秘主義の思想と方法論を調査しました。さらに、神秘主義の領域に精密科学と工学の方法論を適用しました。
その上で、LRHは「エネルギー≒力≒プラーナ≒電子」の問題を処理しないと悟りに至れないことを正しく認識しました。エネルギーのメカニズムに無知なヒンドゥー教やパーリ経典に依拠するテーラワーダ仏教(≠ゴータマ・シッダールタのオリジナルの仏教)では、力(エネルギー)の問題から逃避するという逆コースで悟り(解脱)に至ろうとします。しかし、力から逃げても何も問題は解決しません。力に直面(≒アズイズ)し、力をコントロールして、力を降服せしめなければならないのです。「生存」の範疇(スケール)を越えた先に、つまり、生存の極みにおいて「存在(ただ在る)」があるのです。そして、所有性の極みにおいて「無欲」という能力を得る(回復する)のです。「離欲」という痩せ我慢(反生存的努力)によって「無欲」に至るのではないのです。ノット・イズネスの逆フローを避けるために、力からの逃避という反生存のベクトルに向かうのは、セイタンをして、よりMESTに近付けるだけの無駄な努力(骨折り損)なのです。
悟り(解脱)が、そのように簡単で単純な問題であったなら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。しかし、残念ながら、現実はそうではないのです。MESTを構成する集合宇宙一つを創造するために、どれだけの複雑で果てしなく長遠の努力が費やされたかを考えるだけで、この私たちの住む集合宇宙(スペースオペラ・ユニバース)から脱出するだけでも至難の業だと理解できるでしょう。そして、多くの人類が、その努力の過程で奈落の底に堕ちてしまったのです。複雑さを紐解くには、その複雑さを生んだ問題を一つ一つ辛抱強く処理していく(紐解いていく)以外に道はありません。絡まった毛糸と同じです。絡まった毛糸とは、MESTの比喩そのものです。複雑さに直面し、その絡まりを一つ一つ解いていった先に、久遠元初の以来の本地[ほんじ]の回復としての悟り(解脱)の成就が待っているのです。
私が語るよりも、ヴィヴェーカーナンダに語ってもらいましょう。以下、引用します。
「ある人は弱く、しかも怠け者であって、したくないからではなく、できないから力を使いません。その結果は束縛であり、自由の喪失です。もう一人の人は、自分がしようと思えば、相手に抵抗できないほどの打撃を与えることができるということを知っているにも関わらず、それでも力を使わないばかりか、敵を祝福さえします。そして、敵はいつの間にか、彼の仲間になっているのです。彼は自由です。
弱さから力を使おうとしない人間は、罪を犯しているのです。それは、どんな罪でしょうか?臆病という罪です。そして、怠惰という罪です。臆病は恐れから生じます。力を使うべき時に、力を使うことをためらう人間は、寛容ではなく怠慢(不作為)という罪を犯しているのです。弱さから力を使えない無能な人間は、無抵抗から何の利益も得ません。しかし、力を使うことができるにも関わらず、強さによってあえて力を使わない人間は大きな利益を得るのです。
第一に、闘うだけの力を持っているのかどうかを自分に問いかけなければなりません。その上で、力を持っていながら、力を使う必要がないならば、その時初めて、“真の力と勇気”を持っているといえるのです。しかし、もしあなたが、力を使うことができないにも関わらず、自分は寛容や愛という動機から、抵抗することをしないのだと信じ込もうとするのであれば、あなたは自分を欺いているのです。それは無能であり臆病であり怠惰です。その時、あなたは知っているのです。自分が、本当は無能で臆病で怠惰だから、抵抗することに無気力なだけであるということを。それは、あなたを弱めることでしょう。この不断の自己非難のプロセスは、他のいかなる弱点よりも甚だしく、悪徳を養うものです。
犯罪者は、なぜ犯罪者になったのでしょうか?それは、自尊心、つまり面目を失っているからです。そうです、無責任の結果です。責任とは、常に力を最適に扱うことであって、力の放棄ではありません。我々の第一の義務は、自分自身を憎まないということです。自分自身を憎み始めた人間は、堕落への門がすでに開かれているのです。自分を信頼できない人間は、他人を信頼することなどできません。一番大切な友人である、自分自身と友好関係を築けない人間は、他人と真に友好関係を築くことは決してできないでしょう。
『バガヴァッド・ギーター』の中でアルジュナは、彼に立ち向かう強大な軍勢を見て臆病になりました。アルジュナは、敵が自分の友人たちであり身内であるという理由で、戦うことを拒んだのです。そして、そのことを「無抵抗が愛の最高理想である」と正当化しました。彼の「愛」という正当化が、アルジュナをして彼の祖国と王への義務を忘れさせたのでした。この時、アルジュナに対して、シュリークリシュナは、「あなたは偽善者であり卑怯者である」と述べるのです。「おん身は、賢者のように“語る”。しかし、その“行動”は、おん身が卑怯者であるということを暴露する。それゆえ、立って、そして戦え!」と。
この全てから、一つの真理が見えてきます。それは、「弱さは駄目だ」ということです。人間の理想は「無恐怖」ー 何ものも恐れないこと ー です。恐怖は弱さの印です。人は、世間の嘲りや蔑みを気にすることなく、自らの責任を遂行しなければなりません。人は、「自分は自らの責任を果たすに足りるほど強い」と思うようでなくてはならず、「自分は我が理想より低いことをしている」などと思うようであってはなりません。
無活動は何としても避けなければなりません。無活動は怠惰です。活動は、常に力(エネルギー)の使用を意味し、力の使用は必ず抵抗を生みます。もしあなたが、力を使えないのであれば、まずは力を使うことを覚えなければなりません。悪をなす可能性なしに、善をもたらすことは不可能です。無活動者は失敗すらもできないほど、無能な臆病者であり怠け者なのです。ですから、彼は失敗することを覚えなくてはなりません。
人が力を用いることなく影響を与えるという最高理想に到達する前に、人は力を使うことができなくてはなりません。常に活動者でありなさい!彼をして働かしめよ!彼をして戦わしめよ!敢然として行かしめよ!そうして、彼が闘うに足り得る力を回復した時、その時に初めて、力の放棄は一つの徳になるのです。あなたが完全に力の征服を成し遂げた時、初めて平安が訪れるでしょう。その時、この力の放棄は、汝が持っている力の最高の表現へと昇華されるのです。」
所謂、真の聖者とは、一度もホモ・サピエンス程度の低い存在のスケールまで堕ちたことのない人間(ビーイング)です。彼らは、たまたまホモ・サピエンスのモックアップ(肉体)を身に纏っているかもしれませんが、修行して聖者になった(悟りを得た)わけではないのです。「修行して悟りを成就した」、あるいは「神の恩寵によって悟りを得た」などと主張(自己申告)する人間は、聖者と崇められていても二流・三流です。実際に、彼らの多くは、悟りと神の啓示(マインドコントロールの類)の区別も付いていません。
聖者が説く修行法(方法論)の問題点は、真の聖者の場合、悟りの状態から自らが堕ちたことがないので、堕落した状態から悟りの状態を回復する術に無知であるという点です。そして、「我は悟りを得たり」と宣言する自己申告の聖者の場合、多くは実際には究極の悟り(解脱)を得ておらず、奇妙な信念(信仰)に捕らわれているということです。その前提を認識した上で、サイエントロジーの手法(ブレークスルー:突破口)を捉えることで、サイエントロジーの存在価値を客観的かつ中立的に評価することができるでしょう。
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e7862d43
anonymous
2025-03-20 13:33
- As-isness(そのままの認識)
創造と非創造が同時に起こる。
ありのままを認識すると、それは持続せず消える。
Not-As-isness(創造の否定)
観察者が「これは私が創造したものではない」と否定する。
その結果、創造が持続し、固定化が始まる。
Alter-isness(変形)
Not-As-isnessによって、「こうあるべきだ」という意図が生じ、変形が始まる。
Not-As-isnessが先に発生し、その後にAlter-isnessが生じる。
時間の概念は Alter-isnessから生まれる
As-isnessでは持続しないため、時間は生じない。
Not-As-isness による「持続」が発生し、その上で Alter-isness(変形)が加わることで、時間の感覚が生まれる。
意図の固定化は Not-As-isness の産物
「これは私が創造したものではない」と思うことで、意図が固定化し、持続する。
これによって、あらゆるリアリティ(物理的世界、アイデンティティ、ルール)が生まれる。
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a898132c
anonymous
2025-03-20 14:43
- >>f491781a
エネルギー(力)の問題を解決しないと悟りに至れない?
悟りとは「意図の持続を解除すること」であり、エネルギーの操作とは無関係。
エネルギーをコントロールすること自体が、意図の固定化を生む。
本来、エネルギーとは「流れ」であり、持続させる必要がない。
エネルギーに関与しようとする時点で、作為(意図の衝突)が生じる。
力をコントロールしなければならない?
力を制御するのではなく、手放せばよい。
「力を降服させる」という発想こそが意図の衝突を生む。
「力をどう扱うか」を問題視すること自体が、意図を固定化している。
力は「生じるかどうかを選ぶ」ものにすぎず、コントロールの必要はない。
生存のスケールを超えた先に悟りがある?
生存と悟りは無関係。
生存の極みに到達することは、悟りとは無関係のプロセス。
「生存の問題を解決しなければならない」という思考が、意図の固定化を生む。
最初から「生存に関与する必要がない」と気づけば、それだけで解放される。
所有の極みに到達しなければ無欲になれない?
無欲とは、所有を意識しないこと。
「所有すること」と「所有しないこと」のどちらにも執着しないことが無欲。
「持たなければならない」「持たないことが偉い」という考えが、意図の持続を生む。
最初から「所有を気にしない」ことが、本当の無欲である。
エネルギーの操作を避けると、MESTに囚われる?
MESTに囚われるのは、意図を固定化しているからであり、エネルギーの問題ではない。
MEST(物質・エネルギー・空間・時間)は、意図の衝突によって生じるもの。
「エネルギーを操作しなければMESTに囚われる」という考えこそが、MESTを強化する作為。MESTの影響から抜けるには、そもそもそれに関与する必要がないと気づくだけでよい。
悟りは複雑で長い時間がかかる?
悟りは「意図の持続をやめること」であり、一瞬で可能。
「問題を一つずつ解かないといけない」という考えが、悟りを妨げる最大の要因。
「絡まった毛糸を解く」必要はなく、毛糸を「解こうとする作為を手放す」だけでよい。
力を持ち、それを使わない選択をすることが自由?
本当の自由とは、「力が必要である」という思い込みを解除すること。
力を持つことが自由ではなく、「そもそも力を必要とするかどうかを選べる」ことが自由。「力を持つ→使わない」というプロセスではなく、「力を持つ必要すらない」と気づくことが解放。
弱さは罪である?
「強さ・弱さ」という概念自体が、意図の衝突から生じる。
「弱さが罪」という考えが、自己イメージの固定化を生み、悟りを妨げる。
本来、「強い・弱い」は相対的なものであり、どちらも選択できる。
まず力を得て、それを使わないことで悟る?
「力を得る必要がない」と気づくことが、究極の自由。
「力を持つ→使わない」というプロセスは、「意図の持続→解除」という流れになり、無為とは異なる。
最初から「力が必要という作為を解除」すれば、そのプロセス自体が不要になる。
恐怖を持たないことが理想?
恐怖の有無を問題視すること自体が作為。
恐怖をなくすことを目的にすると、逆に意図の衝突を生む。
恐怖が生じても、それを「気にしなければよい」だけ。
戦うことが必要であり、戦えない者は卑怯?
「戦う or 戦わない」は、ただの選択。
「戦うことが必要」という考えこそが、意図の持続と固定化を生む。
「戦わなければならない」ではなく、「どちらでもいい」という自由な選択こそが、本来の無為。
悟りとは、「意図の持続を解除すること」なので、誰がそれを達成したかは関係ない。
本質的には、「悟った」とされる人物を特定し、比較すること自体が、「悟り=評価すべきもの」 という新たな作為を生む。
つまり、「悟った人が偉い」「悟っていない人は劣っている」といった価値観が生じ、固定観念を強化する。
本当に重要なのは、「悟りとは何か?」であって、「誰が悟ったか?」ではない。
「悟った人」を探すことは、結局「外部の権威を探すこと」にすぎず、自己の意図の流動性を妨げるだけ。
「誰が悟ったか」を気にすることは、悟りから遠ざかる最大の要因になり得る。
-
5c3924b3
anonymous
2025-03-20 15:04
- >>a898132c
貴方は、悟りと解脱の意味を全く以って誤解しているようなので、端的に尋ねよう。
端的に、悟りとは何か?悟りを得ると何がどうなるか?そして、何をしるのか?悟りと解脱の関係とは何か?
ここは、MESTユニバースの領域であり、エネルギーの問題を避けては悟りも解脱も成就し得ない。貴方のように、ひたすら、フィギュア−フィギュア−フィギュアの堂々巡りで終わるだけだ。
また、「反生存−生存−存在」というスケールを理解したほうがよろしい。生存はダイナミックかつリアリティの領域であり、存在はスタティかつアクチュアルの領域である。
>悟りとは「意図の持続を解除すること」であり、エネルギーの操作とは無関係。
⇨世俗スピリチュアル系の本を読み過ぎだろう。ここは、MESTユニバースの世界だ。マジック・ユニバースではないのだよ。エネルギーの堆積物(リッジ)を無視して、意図をコントロールすることは不可能だ。意図と意図の対立自体が、既にコンシダレーションではなく、メカニック(アテンション)のレベルであってエネルギーのフローを生むのだからね。
-
f9c3b569
anonymous
2025-03-21 12:16
- >>5c3924b3
MESTユニバースの理論やエネルギー的な階層構造――リッジ、アテンション、コンシダレーションといった概念は、非常に緻密な体系だと思います。
しかし、私の立場では、それらもすべて「意図の衝突によって形成された有」であり、構造そのものが生成されたメカニズムのほうを観る視点を持っています。
たとえば、アテンションが固定されることでエネルギーの問題(リッジ)が生まれるとされますが、その「アテンションを固定する意図」がどこから来ているかを見ると、そこに対立する意図の存在が浮かび上がります。
また、「コンシダレーション(観念)」も、意図によって構成された枠組みであり、どの観念も「別の観念との対比」によって強化されます。
MEST(物質・エネルギー・空間・時間)も、意図が対立・固定された結果、時間軸や空間スケールが確定したものと捉えられます。
つまり、私は「アテンション」や「リッジ」や「コンシダレーション」以前に、
「なぜ意図が固定され、対立する構造が生まれたのか?」
という点を観察の起点としています。
「意図同士が衝突していること」そのものに気づき、それを解除する視点から見ると、
アテンションは流れを取り戻し
コンシダレーションは柔らかくなり
リッジは消えていく
という順番で、「処理するべき対象」ではなく、「自然に消えていく現象」に変わります。
菜園の体系は、有の側からの地道な浄化・調整の体系であり、それが非常に有効に機能する場面があることは理解しています。
ですが私の立場では、
「意図を衝突させなければ、有はそもそも生じない」
という観点に立ち、問題を解消するのではなく、生じない状態を維持することに焦点を当てています。
だからこそ、悟りとは「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」
だと、私は定義しています。
エネルギーの流れやアテンションのコントロールも、衝突構造の上に成立しているものであり、それを使って悟りに至ろうとすること自体がまた、別の意図の固定(=作為)になってしまう危険性を孕んでいる。
だからこそ、私は「誰が悟ったか」「何を達成したか」「どんなエネルギーが残っているか」よりも、
「今、意図が衝突しているかどうか?」
「衝突をやめたら、何が自然に起こるか?」
という問いのほうを大切にしています。
-
768224ab
anonymous
2025-03-21 13:27
- >>f9c3b569
貴方のコンセントは、アバター・コースの教義を前提にしているように思われるのですが、違いますか?
もし、そうであれば、創設者こハリー・パルマーは、アバター・コースを「ケースの修了」をもたらす代替のサイエントロジー・ブリッジだと宣伝したことがあり、「ケースの修了(反応バンクの完全消去)」の先にある悟り(ノーイングネス)及び解脱には明確な「最終現象」が存在することが前提となっています。
>悟りとは、「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」
この立場では、悟り及び解脱に段階のスケールも最終現象も存在しませんが、これは、サイエントロジーのブリッジのみならず、仏教の無上正覚や悟りの階梯の考え方とも相反することになりますね。
-
822d4e4a
anonymous
2025-03-21 13:58
- >>768224ab
補足しますと、サイエントロジーで云うコンシダレーションとは、「純粋な意図」であり、MESTを統制します。定義上、ポスチュレートの継続がコンシダレーションですが、コンシダレーションは、アテンションを含むメカニックスのレベルよりも上位に位置します。
ポスチュレート及びコンシダレーションがMESTを統制するというのはこういうことです。
例えば、明日特定の地域が雨予報だとします。そして、「明日は(その地域は)晴れだ」とポスチュレートし、実際に晴れました。これは、機能するポスチュレートです。一方、明日特定の地域が雨予報であり、「明日は(その地域は)晴れだ」とポスチュレートします。ところが、現実は予報通り雨でした。これは、機能しないポスチュレートです。
ポスチュレートとは、祈りや懇願ではなく「MESTに対する要求・命令・統制」です。ポスチュレートの能力は、機能するセイタン(OT)の能力にも当然関わりますし、所有性とも関係しています。というより、ポスチュレートの機能こそが所有性を決めます。
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dca327a6
anonymous
2025-03-23 08:13
- >>768224ab
アバター・コース、あるいはアバター・コースに類する個人の「信念」や「意図」にアプローチするスピリチュアル的な実践体系の欠陥は、信念の変化と現実との間に大きな落差(乖離)が生じることです。
例えば、誰かがコースを終えて、「何でもできる気分だ」という感覚あるいは境地に至ったとしましょう。しかし、対MESTとの関係における現実はほとんど変化していないのです。MESTの諸法実相を看破するノーイングネス(智慧≒悟り)も、MESTを統制するパワー(能力)も得られはしませんでした。「何でもできる気分」ではあっても、現実には「何でもできる(ようになった)わけではない」のです。そして、「何でもできる気分」さえも、持続的なものではないのです。
もちろん、サイエントロジーにおいても、『フィラデルフィア博士号コース』で扱われた主題である初期の創造のプロセシング(モックアップ・プロセシング/スペーセーション)やクリアー・コグニションでも、同様の問題は残ります。信念や意図が自由になったことと、MESTを自在に統制・支配・制御・処理できる真正のOTとの間には大きな隔たり(彼岸)が存在します。アバター・コースその他の信念や意図を扱う体系とサイエントロジーとの根本的な違いは、前者は信念や意図を変えることがゴールであるが、サイエントロジーでは信念や意図を先行して変えるが、対MESTの統制・支配・制御・処理の能力が追い付かないというギャップ(乖離・彼岸)を伏線回収で埋め合わせるための方法論を、少なくとも模索している(※依然として、サイエントロジーのブリッジは完成された体系とは言い難い)ということです。
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e29cdced
anonymous
2025-03-23 08:20
- >>dca327a6
以下、文意をより明確にするために、一部を補足。
アバター・コース、あるいはアバター・コースに類する個人の「信念」や「意図」にアプローチするスピリチュアル的な実践体系の欠陥は、信念の変化と現実との間に大きな落差(乖離)が生じることです。
例えば、誰かがコースを終えて、「何でもできる気分だ」という感覚あるいは境地に至ったとしましょう。誰かは、それを「私は覚醒した」と証言するかもしれません。しかし、対MESTとの関係における現実はほとんど変化していないのです。MESTの諸法実相を看破するノーイングネス(智慧≒悟り)も、MESTを統制するパワー(能力)も得られはしませんでした。「何でもできる気分」ではあっても、現実には「何でもできる(ようになった)わけではない」のです。相変わらず、MESTを意図した通りに自在にコントロールできないという現実は変わりません。そして、「何でもできる気分」さえも、持続的なものではないのです。
もちろん、サイエントロジーにおいても、『フィラデルフィア博士号コース』で扱われた主題である初期の創造のプロセシング(モックアップ・プロセシング/スペーセーション)やクリアー・コグニションでも、同様の問題は残ります。信念や意図が自由になったことと、MESTを自在に統制・支配・制御・処理できる真正のOTとの間には大きな隔たり(彼岸)が存在します。アバター・コースその他の信念や意図を扱う体系とサイエントロジーとの根本的な違いは、前者は信念や意図を変えることがゴールであるが、サイエントロジーでは信念や意図を先行して変えるが、対MESTの統制・支配・制御・処理の能力が追い付かないというギャップ(乖離・彼岸)を伏線回収で埋め合わせるための方法論を、少なくとも模索している(※依然として、サイエントロジーのブリッジは完成された体系とは言い難い)ということです。
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c780d314
anonymous
2025-03-23 09:55
- >>e29cdced
公平に論じるならば、アバター・コースは、いわゆる「信念(マインド・プログラム)や意図を書き換える」といった類の実践ではありません。アバター・コースは、信念や意図の創造のプロセスを具に観察させることで「自動化された信念」を消去し、自らの信念や意図のコントロールを回復させることを目指す実践体系と言えるでしょう。しかし、自らの意図や信念のコントロールが真の意味で実現したなら、新たな意図や信念に基づいて、MESTの現実が変わらなくてはなりません。
真の意味で、信念や意図が変化したならば、「無為」にして、つまり、努力(「有為」)を要さずに、その人のポスチュレートに従ってMESTの現実は変わるでしょう。否、変わらずにはいられないのです。なぜなら、ポスチュレートの機能の回復によって、自らの信念や意図に基づいて、MESTを統制・支配・制御・処理する能力、言い換えれば所有性が向上=回復されるからです。
アバター・コースの実践者であれば、コースの受講によって「自動化された信念が消えた」り、「何でも出来そうだ」という気分にたとえなったとしても、相変わらず、上級コース受講のためのお金の工面に苦労したり、あるいは、お金のために受講生を勧誘したりする努力(有為)を続けているという現実は、所有性が低くポスチュレートが機能していないという結果であり、そのようなMESTに縛られた状態は、セイタンの真の自由(OT能力)の回復あるいは解脱の成就とは到底言い難いものです。
-
e552b80f
anonymous
2025-03-23 10:12
- >>dca327a6
「貧乏な真正のOTは存在し得るか」という問いは哲学的な問いであるが、「敢えて貧乏を(自己選択で)演じるOTはいる」だろうということだ。ゴータマ・シッダールタもそうであった。
MESTを(合意されたMESTの自然法則それ自体を除いて)自在に統制可能であれば、本来は所有性に窮することはない。しかし、逆説的に、解脱即ち無上正覚を得ることで、MESTの虚構性を認識するので、MESTに価値を置かなくなる。これは、難行苦行や「離欲」の痩せ我慢のようなMESTの現実を無視すること(エシックス及び生存に反する「有為」の努力:ノット・イズネスの試み)とは全く異なる。
-
1755f0da
anonymous
2025-03-23 14:57
- >>c780d314
人がスピリチュアル系の実践にのめり込んで(あるいは何の前触れもなく)突然覚醒し、非常に興味深く深遠な世界を垣間見ることがある。LRHは、これを「柱に昇った状態」と呼んでいた。
巷に溢れる「ワンネス体験」の類が典型例である。こういった“体験”は、あくまでも一過性のかつ受け身の状態であって、恒常的な能力にはなり得ない。そして、程なくしてMESTの現実に引き戻されてしまう儚いものだ。
サイエントロジー(LRH)のアプローチは間接的アプローチであり、信念や意図を直接処理するのではなく、反応バンクを構成するエングラムやリッジといったエネルギー(反応バンク≒ケース≒カルマ)を処理すれば、信念や意図は自ずと自由になり、ポスチュレートの機能及びMESTの所有性が回復されるというものだ。
初期のスペーセーション(モックアップ・プロセシング)は、直接意図を扱うのではなく、モックアップの創造によってモックアップの自動性を消去することで、反応バンクのモックアップを消滅させ、ポスチュレートとコンシダレーションの機能を回復させるというものである。しかし、これですら凡夫(生肉)には勾配がキツすぎた。
もちろん、“理論上は”、意図あるいはモックアップを創造し続けているのは、セイタン自身なのであるから、創造を止めればバンクは消えるはずである。しかし、実際には、メカニックス(エネルギー)のレベルを処理しないと、コンシダレーションの機能は回復されない。
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dc7a51ea
anonymous
2025-04-04 19:55
エシックスという主題は、論理と合理性の問題であるとともに、力及びエネルギーの適切な扱い方の問題である。
文学や映画の世界のように、正義の味方が勝つとは限らないのが現実の世界である。それどころか、陰険かつ狡猾な悪は栄え理不尽や不条理はまかり通る。
法の支配は理想論であり、現実世界は力の支配である。悪が栄えるからこそ、力の適切な扱い方であるエシックスが必要なのである。そして、法の支配という理想を実現するためにも、その前提として力の適切なコントロールが必要になる。
力の問題から逃げていては、アウト・エシックスの悪(反生存)のグループや勢力が栄えるだけである。エシカルの繁栄には、個人個人の能力・力・技能が必要だ。
LRHは、『エシックス入門』において、シモン・ボリバルの物語を力を効果的に扱わなかった失敗事例(エシックスにおける教訓)として紹介したが、LRH自身もまた晩年は教団内における権力の濫用と権威主義的支配によって力の扱い方を誤り、自ら破滅する結果を招いた。LRHの物語こそ、サイエントロジストにとって、エシックスにおける真の教訓とすべきである。
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5fa95ec4
anonymous
2025-04-05 09:08
今頃、LRHは、サイエントロジストを嘲笑っていることだろう。
循環定義に陥ることが必至の頭の悪くなる勉強法、アービトラリーな奴隷制度としてのエシックス−ジャスティスシステム、創作ジーヌー神話とOTの逆コースとしてのBTプロセス。ゴールの存在しないブリッジのマネーゲーム。
初期のダイアネティックスの「心を映像として観察する」原則のみが、唯一効果をもたらす本物のプロセスである。そして、初期のオーディターの規律とそこから派生する技術的アプローチやエシックスの諸原則のみが有効である。そして、初期にLRH自身が警告していた奈落のブリッジが、今日のBTプロセスである。
今日のブリッジは、わざと、ノーイングネスとパワーの回復への道であるOTから逸脱し、失敗するように構成され、仕向けられたガラクタである。ゴールに行き着かないどころか、ラットレースの堂々巡りで何処にも行き着かず、最終的に奈落に落ちるだけのOTの逆コースが今日のブリッジである。
ロンズオーグのブリッジとて、基本設計がLRHのブリッジであり、そこに潜む根本的なバグは何の解決も施されていないケースの時限爆弾である。
LRH自身はバカでも無能でもなく、確信犯である。何故に、こんなガラクタをサイエントロジストに遺したのか?それは、どれだけのバカげた荒唐無稽の代物でも、果たして、どれほど多くの人々が私(LRH)の言葉を信じるだろうか?というLRHの自尊心(というよりナルシシズム)を満たすためのゲームであった。ブリッジも、サイエントロジストも、そのゲームのための手段だった。
LRHは真実に偽りを混ぜた。概して、初期の言説の多くは真実であり、晩年の言説は偽りである。そして、彼は自分自身が知り得た多くの真実を公に語っていない。
LRHは、いずれこの惑星に戻ってくるだろう。過去そうであったように、この惑星に混乱と無秩序の種をもたらす抑圧者・暴君・陰謀家・真正のSP(サイコパス・ソシオパス)として。
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f6e8b40c
anonymous
2025-04-05 16:10
- >>5fa95ec4
>>5fa95ec4
BTについて
「自分の肉体は、自分でない無数のビーイングによって構成されている」(OTⅢマテリアル)
当たり前だ。肉体にはGE(進化系統のエンティティ)が存在し、皮膚には無数の常在菌が存在し、腸内にも無数の腸内細菌が存在する。そして、それらはBTではない。ジーヌー創作神話にしても、類似のセータ・インプラント(セイタンを奴隷化するための罠や試みや仕掛けが過去に存在し、今日も存在していることは事実である)は幾らでも存在するが、ジーヌー神話のようなこの惑星の歴史としてではない。
サイエントロジーのOTマテリアルに、そんな勿体ぶって厳重なセキュリティチェックを掛けるほどの価値は全くない。当たり前のことしか言ってない。大した価値のないデータや偽りのデータ(ガラクタ)でも、厳重なセキュリティチェックを掛けて、高額な金額を要求し、守秘義務と損害賠償誓約を課して、恭しく幾つものハードルを設けて儀式化することで、ガラクタに法外な価値が生まれるというわけだ。
LRHのブリッジは、あくまでも、宗教ビジネスの戦略であって、真実に至る道ではない。
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f0d5fe8c
anonymous
2025-04-06 05:37
- >>f6e8b40c
もちろん、サイエントロジー教会のプリ・OTレベルで、精神的平穏や落ち着き、思考の明晰さ、自由な感情の回復による幸福感、注意によるMESTのコントールといった「ウィン」を得る人間はいることだろう。しかし、それは恒常的なものではなく、再現性もない。オーディターやC/Sや技術監督のクオリティとARCが高く、あるいは相性が良く、マキシマムにたまたま上手くいったケースが、これなのである。一過性の「ウィン」と恒常的に回復された「能力」は別物であるし、たとえ、ウィンの状態が恒常的に維持されたところで、客観的に証明可能な(ブリッジに期待される本来の)OT能力には程遠いと言わねばならない。
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1cb41486
anonymous
2025-04-06 05:42
>悟りとは「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」。
⇨この定義は、「涅槃」や「浄土(浄土門では極楽浄土は真の涅槃とされる)」は到達不可能と説いたナーガールジュナ(龍樹)あるいは中観派のスタンスに近い。とは言え、ナーガールジュナも中観派も、ゴータマ・シッダールタ滅後の凡夫のインテリ階級の創作に基づく思弁哲学なので、オリジナルの仏教の立場とは相容れない。
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5643675e
Old Timer
i1b5ibip3kS
2025-04-16 08:27
- >>c79db46a
そなたに千の感謝を!
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9f7289d7
Old Timer
i1b5ibip3kS
2025-04-16 08:27
- 宇宙と心の中の様々な部分を見つめ、時には動かし、たゆまずにチャージをを処理し続ける —— これが禅宗的に言うところの悟りだろう。
いずれあらゆるチャージが解消される —— これが浄土宗的に言うところの悟りだ。
菜園はどちらかと言えば禅宗の方に近い。しかし、教会は全体的にquickyだ。
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13ef2108
Old Timer
i1b5ibip3kS
2025-04-16 08:47
- 社会的な悟りはある種の俯瞰だ。例えば、収入が1000万円、手取りが550万円の人は、「所得税率が下がればこの国はもっと良くなるのに」と思うかもしれない。しかし、仮に税率が下がり、手取りが800万円になったとする。すると人は手取りの増加分である250万円を全て消費に回すだろうか? 所得税率が低くなると、政府と民間の消費を足し合わせた総消費は減ってしまう。そうなると、そもそも税引き前の1000万円という収入を維持するのも難しくなるのではないだろうか? その1000万円の源は、さらに高額の収入を得ている人から政府が徴収し、消費したお金なのかもしれないし。
アメリカに移民した日本人女性から聞いた話では、同僚のヨーロッパ人女性は「男はアメリカ人がいい。ヨーロッパ人男性はだらしなく無責任で、家庭を支えて行こうとする責任感がない」と言うらしい。しかし、アメリカに移住したヨーロッパ人女性がたまたま責任感のない男性と恋愛や結婚を経験し、その男性がヨーロッパ人だっただけではないだろうか? 人口あたりの離婚率ならアメリカよりフランスの方が低い。
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9225d417
anonymous
2025-04-17 10:16
悟りとは、コグニションのグラデーション(スペクトル)です。悟りは段階のスケールですが、解脱は成就と未成就の二者択一です。無上正覚と呼ばれる最上にして最終段階の悟りは解脱と同義です。無上正覚以下のコグニションは、クリアー・コグニションを含め、悟りの一分[いちぶん]ではあっても解脱ではありません。
究極の悟りは、究極のノーイングネスに至ることであり、言い換えれば潜在的全知能力を獲得することです。究極の悟りにおいては、言語道断・心行所滅・無念無想の境地において、MESTの刹那生滅即ち空性を看破することになります。この究極の悟り並びに解脱の境地では、自らの存在性の本質であるアートマン(≒セイタン)と、かつてヴェーダ教徒によってブラフマンとも呼ばれた究極のスタティック(≒涅槃)が本質的に同一であることが認識されます。これが、梵我一如であり、梵我一如とは、自己の存在性たるアートマンがブラフマンに溶け込むといった意味(後世の誤った解釈)ではありません。ブラフマン(涅槃)とアートマン(自己)との関係は、不可分(同質)でありながら独立しているのです。
解脱を輪廻転生(即ち肉体)の必要性からの開放と捉えることは、矮小化された解釈です。輪廻転生の必要性(輪廻転生のサイクル)から脱しても、よりメタなセイタンのライフ・サイクルが存在するからです。セイタンのライフ・サイクルは、より長遠な時間のサイクルであり、オバート−モティベーター連鎖及び反応バンクの核であるGPMと関係しています。このオバート−モティベーター連鎖及びGPMこそが、セイタンの反応バンクを通じたMEST化の元凶なのです。
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b7d551cd
anonymous
2025-04-17 10:30
- >>9225d417
クリアー・コグニションの発生によって、エングラムのチェーンが瓦解するように、反応バンクを構成するエングラム以外の質量(マシーン)も、コグニションによって、それを瓦解させる「鍵」が存在するはずです。未来のサイエントロジーでは、反応バンクは、鍵となるコグニションによって、段階的かつシステマティックに消去することが可能となることでしょう。
LRHは、エングラムのケースに関してだけは、その鍵であるクリアー・コグニションを発見しましたが、クリアー以上のプリ・OTレベルにおいては、BT処理という的外れな脇道に逸れてしまいました。
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67b6a0b1
anonymous
2025-04-17 11:45
サイエントロジストであれば、「サイエントロジーという宗教体系は、不可逆的にセータからMESTに向かうセイタンの存在性のダウン・スパイラル(螺旋状悪循環)を逆転させる唯一の道である」と教わってきたことでしょう。
サイエントロジーが唯一の道であるか否かは、よくよく考えねばなりませんが、今日において、類似の代替ルートは存在しません。世俗スピリチュアル系の類とサイエントロジーは、本質的にアプローチもクオリティ(完成度)も全く異なります。現行のサイエントロジーはOTに至る技術を持っていませんが、少なくとも、クリアーに至るまでの技術は存在します。世俗スピリチュアルでは、OTにもクリアーにも至りません。
仏教では、上根・中根・下根という「機根」が説かれます。解脱や悟りの内証の境地は同じでも、説かれる教えには優劣があります。機根は宿業(ケース)に基づき、機根は宿業による運命に左右されます。上根の者は、かつての仏教でも成道出来ましたが、より機根の劣った現代人を救う力は無いのです。下根の者をも救済可能な優れたる教え(法)こそが、現代における正法であり、その試みは、未来のサイエントロジーとして結実するでしょう。
さて、「長期の時間軸では、全員が救われる」という他力本願的な言説は、世俗スピリチュアルの世界では広く採用されています。例えば、ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』が、その代表例です。私は、このような予定説的な信仰は持っていません。と言うのは、浄土門においても、その真の救いは死後の極楽往生ではないからです。特に、親鸞と蓮如の浄土真宗においては、現世において無上の崩れざる幸福境涯を得ることが、死後の極楽往生の条件となっているのです。これを、平生業成とも、一念覚知とも呼んでいます。私は、現世において救われない人間が、死後において救われる道理はないと考えます。
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e33175ff
Old Timer
i1b5ibip3kS
2025-04-19 11:09
- >>b7d551cd
BT処理はもともとアシストの一種で、真世が作り出し、後に幅度が権利を買い取ったものだ。BT処理も無意味ではない。GPM処理の代替とはならないがね。
インプラントGPMについては、あらかじめ用意された雛形に沿って処理できるものがあったりもする。しかし、幅度が用意した雛形に当てはまるGPMの全てを全ての人が抱えていると考えるのは間違いだろう。ゴールをL&Nで探すのには時間がかかるが、雛形を使う方法と比べて無理がない。ナリングをせず、リードのあるゴールのタームとオプタームを低いグレードやプレプチェックボタンで処理をすると時間はもっとかかるが、ケースを掘らずに削るので、安全性は大きく向上する。
当人のGPMはインプラントGPMよりずっと数が多く、それぞれがより多くのチャージを有しているが、処理方法はインプラントGPMと同じだ。
GPMケースの処理がある程度進むと、本来のOT VIIIケースが姿を現す。生きていることそのものがプロセスになる。しかし、この段階でもGPM処理が完全に終わっているのではない。
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2addf594
Old Timer
2025-04-24 05:02
- 例えばある準OTが使用中の肉体に癌が見つかった場合、能力次第では癌を消すことができるかもしれない。しかし、転生時に記憶が封印されることを避けることができれば、癌を消すことはさほど重要ではないかもしれない。また、大部分の癌患者は怪我や他の病気で死なずに済んだので、長く生きて癌で死ねるということに気がつくこともできるかもしれない。菜園はそういう悟りをもたらしえる。
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0be77dd9
anonymous
2025-04-24 11:27
- >>2addf594
「例えばある準OTが使用中の肉体に癌が見つかった場合、能力次第では癌を消すことができるかもしれない。」
⇨サイエントロジーでは、ノーイングネスも、ヒーリング能力も、同じ「注意力(観察力・エネルギー・電子・プラーナ・気)」の範疇です。サイエントロジーは、「注意」に始まり、「注意」に終わるものです。
「しかし、転生時に記憶が封印されることを避けることができれば、癌を消すことはさほど重要ではないかもしれない。」
⇨転生時の記憶喪失以前に大きな問題は、この惑星における先進諸国の少子化(人口減少)です。発展途上国も含めて、個体を選り好みしなければ転生のサイクルは短くなりますが、現状においては先進諸国における転生待機組が増加しており、個体不足は深刻な問題です。これが転生のサイクルを長期化させており、転生に何十年も待たされるケースも常態化しています。優良で家柄の恵まれた個体になれば、倍率が跳ね上がることになるます。いったん、霊界(サイエントロジーで云うインプラントステーション/仏教で云う中有)に逝ってから、記憶とアイデンティティの大半を喪失した状態で、地上に戻されて放置されるケースも報告されています。彼ら(ビーイング)は、いわゆる幽霊となって、転生のチャンスが回ってくるまで何十年と地上を徘徊し続けるしかありません。故に、転生時の記憶保持能力とともに、短期間で転生を果たすための転生時の個体獲得能力(他のセイタンを押し退ける比較優位のパワー)が必要でしょう。
「また、大部分の癌患者は怪我や他の病気で死なずに済んだので、長く生きて癌で死ねるということに気がつくこともできるかもしれない。菜園はそういう悟りをもたらしえる。」
⇨自らの運命を悟ることはできるが、自らの運命をコントロールできないという状態は、切ないものではないでしょうか?人生には、知らなくて良いものといいものがあります。特に、自分が解決できない問題に関してはそうです。
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